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018 「RENT/レント」(2006)

<基本情報>
トニー賞&ピューリッツァー賞を受賞した、ブロードウェイ・ミュージカル「RENT」。
今作品は、たくさんの人の胸を打った演劇を、映画化。
舞台は、1989年のニューヨーク。
未来に夢をもつ人間が、今という時間の価値を明確に感じる日常を、鮮やかに描き出す。
「ハリー・ポッターと秘密の部屋」のクリス・コロンバスが、監督を務める。

 どうして自分を救うことができるのは、自分しかいないんだろうと思うことがある。布団のなかに潜り込んで、ひっそりと涙を流すとき、周りには誰もいない。孤独が付きまとう毎日には慣れている。だけど、もし、どうしようもない困難に遭遇したとき、あなたに寄り添う人間が、少なからずいることを、知って欲しい。

 題名の「レント」は、毎月の家賃を意味している。住む場所を確保するには、金がいる。あたり前のことだけど、そこを、うやむやにしてはいけない。貧困に苦しむ者が、しっかりと自分の人生を、見つめ直す時間が、必要だ。この物語は、どんなに苦境に立たされようと、隣り合わせた友人は、助けなければならないという、強い意志を貫いている。

 エイズや、同性愛者をテーマにした、社会風刺が、観客をどきっとさせる。私の周りにはいないけど、そういう人が実際にいるんだなという他人事に終わらせない。ごくあたりまえに、日常の一部分として、アパートの隣に、同じ地域に、登場する。アメリカらしさという、簡易な言葉で表現していいか分からないけど、多様性を内包している部分が、僕は、好きだ。

 たくさんの場面で、曲が流れて、キャスト達が歌い始める。それは、表現の一種に過ぎないけれど、音楽の力を肌で感じることができる。登場人物たちが、舞台にたって歌唱する「Seasons of Love」から、この物語は、始まる。うまくいかないこと、どう、やり過ごせばいいか分からないこと、悲しみに打ちひしがれること、それが僕らの人生には、訪れる。そこに、もし「愛」というしるべが残されているのなら、それが導き出す方へと進めばいい。

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017 「グースバンプス モンスターと秘密の書」(2017)

<基本情報>
1992年に第1作が刊行され、アメリカで長年、親しまれている児童向けホラー小説を実写映画化。
主演のジャック・ブラックと、監督のロブ・レターマンが、タッグを組む。
小説を書くと、内容が実体化するタイプライターをめぐって巻き起こる、冒険ファンタジー。

 子どもの頃の、本を読みながら、想像を膨らましたワクワクやドキドキが、そのまま映像化されたような感覚。ファンタジー要素を、好まない人は、頭を抱えるところが、多いかもしれない。小説には、様々なジャンルがあるけど、もとは、所詮、人間の頭の中で想起された架空の物語にすぎない。そのなかで、行けるところまで突っ走り、今まで実在しない輪郭を、つくり出す。そんなストーリーによって、連れて行かれる世界が、僕は好きだ。

 本の中から飛び出すモンスター達を、統率する腹話術人形のスラッピーが醸し出す、差し迫った雰囲気が、緊張感をもたらす。もし、人形に意志があったら、彼らは、何を想いながら、人間の世界を眺めていたのだろう。そこに見え隠れする黒い感情は、やがて憎悪となり、復讐へと変貌していく。小さな街に、解き放された怪物達が暴れ回り、大騒動に発展していくストーリーは、ありきたりかもしれないけど、小気味良い。

 ニューヨークから、田舎町に引っ越してきた少年・ザックの、恋物語も含まれている。スクリーンに出てくる登場人物は、いつも、誰かに恋している。誰かを特別に思う心の複雑さが、人間を最も優しくする。どんなに自分だけを大切にし、エゴイスティックに生きようと、知らぬ間に、他人を愛している。それが、僕らの性質なのかもしれない。試練に立ち向かい、色んなことを通じて、次第に成長していく若者の姿は、勇気をくれる。

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016 「南瓜とマヨネーズ」(2017)

<基本情報>
魚喃キリコのコミックを、実写化。
監督は、「ローリング」の冨永昌敬が務める。
主人公のツチダ(臼田あさ美)と、その恋人・せいいち(仲野太賀)の揺れ動く、関係性を、独特のタッチで、瑞々しく描く。

 恋愛をテーマにした映画って、すごく難しいと思う。他人と、どう向き合うのかは、価値観が、ひとそれぞれだから。ある人の共感をえたとしても、その一方で、理解がえられないなんてことは、多々ある。だからといって、万人受けするストーリーは、ありきたりな展開になって、つまらない。

 ミュージシャンを目指すせいいちは、信念というか、音楽にたいする熱意を、持ち合わせている。でも、それだけでは、人生はうまくいかない。暮らしていくには、お金がいる。やりたくない仕事だって、しなければならない。そんな彼を支えるツチダは、キャバクラで仕事をするようになる。どのシーンも、とても地に足着いた演出に溢れていて、うまい具合に生活感を漂わせている。それが、観ている人に、リアルな印象を与える。

 中盤に、突如、元彼氏・ハギオ(オダギリジョー)が登場する。その彼の性格が、人懐っこくて、すぐ他人の生活圏に足を踏み入れるようなやつだ。どこか、危なっかしい雰囲気に、ツチダは、再び惹かれていく。そんな、彼女の行動が、正しいとか、間違っているとかの議論は、もはや、ばかばかしい。恋愛なんてものは、そもそも、真実とか、常識とか、既成概念を相手にせず、どれだけ自由になれるかに、かかっている。おろかな人間の、心に潜む孤独を暴きだす、とてつもなく、厄介なものだ。

 胸が苦しくなって、なにも手につかないなんて、そんな感情は、もうない。だけど、映像を通じて、そのほんのわずかな面影を、思い出す。それは、とても幸せな瞬間だ。どこのだれかも分からない、スクリーンの中の登場人物に思いを馳せる僕らは、なんだかんだいって、安易だなと思う。でも、それでいい。かしこまる必要なんて、ない。自分が生きやすい方へ歩くという、シンプルな考えは、案外、力強い。

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015 「きっと、うまくいく」(2013)

<基本情報>
インドで、2009年に公開され、大ヒットした。
屈指のエリート理系大学ICEで、繰り広げられる騒動と、その10年後の物語をベースに、二つの時間軸で、ストーリーが進行していく。
大親友の3人組が、それぞれの生い立ちや、将来の展望を語りながら、絆を深めていく。

 まず、170分という長尺に、少し尻込みしまう人は、多いかもしれない。その上、文化も習慣も違う、インドの映画を観るまでの、ハードルが少し、たかい。だけど、この作品は、そんな悩みを吹き飛ばす、決して観終わったあとの後悔のないクオリティーに仕上がっている。海外の作品を観ると、少しその国について、理解が深まる気がする。その上、エンターテイメントとして成立してしまう、インド映画の底力を感じる。

 大学の学長の方針は、競争に勝つことが全てだ、相手を蹴落として、自分が一番になることを標語にしている。彼は、男ならば、エンジニアに、女ならば医師になることが、幸せの道だという確固たる自信に満ちている。競争社会で知られるインドの、お国柄にそった人だ。だけど、型破りなランチョーは、その教育の在り方に、異議を唱えていく。

 そして、この映画では、「圧迫」という言葉が、幾度となく発せられる。その背景には、若者の高い自殺率が、関連している。人生における成功を掴むために、高学歴を求め、そのプレッシャーに押し潰される。本当にやりたいことと、親が望む進路の狭間で、揺れ動く若者の、切実な心理状況が、巧みに描かれている。

 日本では、大学に行く意義が問われ始めている。何の目標もなしに、ただみんなが進学するから、そうする。純真に、ただ学問を学びたいという学生は、一握りかもしれない。どこに向かうかが分からなくなったとき、「きっと、うまくいく」と、心の中で呟けばいい。生きることへの虚無感、失望、不安、それらの、全てを吹き飛ばす力を、この作品は与えてくれる。

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014 「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2017)

<基本情報>
社会派で知られるイギリスの巨匠ケン・ローチが監督を務める。
2016年、第69回カンヌ国際映画祭で、「麦の穂をゆらす風」に続き、2度目の最高賞パルムドールに輝いた。
今作では、彼が、引退を撤回してまで、描かなければならなかった現状が浮き彫りになり、社会風刺が炸裂する。

 この作品のテーマは「貧困」だ。だから、とてもタイムリーだと思う。消費税の増税、弱者切り捨て、非正規雇用の増加など、どうみても暮らしやすい社会とは言えない日本にも、往々としてその問題は、ある。生きていくには、お金が必要である。ほっといても腹は減るし、家賃だって、払わなければならない。だけど、いろんな事情で、働けない人だっている。そんな奴は、ひっそりと死んでいけというのだろうか。

 主人公・ダニエルも、心臓の病気を患い、国に援助を求める。本来なら、福祉が役割を果たすときだ。だから、僕らは税金を払っているのだ。政治家や公務員のいい暮らしを支えるためではない。けれど、彼をとりまく環境が、好転することはない。それは、観ていて、とても悔しい。行政にたいする不信、苛立ちは、どこの国にも、少なからず、あるんだと考えさせられる。何のためにあるのか分からない制度、決まり、規約。それに振り回される市民。

 シングルマザーのケイティも、同じく生活に困窮している。彼女が空腹に耐えきれずに、人目もはばからず、食べ物をほおばるシーンが印象に残っている。よく考えないで子どもをもうけるからだとか、頼りない父親を相手にするからだとか言う批判は、すべて的をえていない。だれしもが、自分の人生を、思いどおりになんかできない。そんなことはないという人は、たぶん圧倒的に環境に恵まれているからだろう。ほとんどの人は、そうじゃない。

 この物語は、どんなに貧乏でも、けっして人間の尊厳を失わない、誇り高い人間の姿が、ありありと刻み込まれている。うまくいかない人生にたいして、容赦なく自己責任論を、ぶつける。そんな理論は、なにも信仰を持たない愚者の戯言だと、無視すればいい。彼らは、ただ資本主義の虜になっているに、過ぎない。社会は、いとも簡単に、個人を追いつめる。胸に宿る、崇高な炎を、荒々しいタッチではなく、淡々と静かな怒りとして表現している作品だ。

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013 「おじいちゃん、死んじゃったって。」(2017)

<基本情報>
ソフトバンクなどのCM演出を手がける、森ガキ侑大が監督を務める。
映画初主演となる岸井ゆきのが、祖父の死をきっかけに、親族たちとの交流を重ね、本当の家族の形を模索していく主人公を熱演。
親類たちを岩松了、水野美紀、美保純、岡山天音が演じる。

 家族も、いつか亡くなる。存在することが、あたり前すぎて、その不在を想定するのが困難なときがある。ふと、そうした時期にさしかかったときに、噛みしめる感情がある。どうして、人は大切なものや、かけがえのないものを、失ってからじゃないと、気付くことができないんだろう。幼い頃に世話になった、恩を返したいと思う頃に、その人は、もういない。

 吉子(岸井ゆきの)は、彼氏とセックスしている最中に、ある電話をうける。それは、祖父の死を報せるものだった。そのことについて、彼女は罪悪感を持ってしまう。べつに、悪いことをしているわけでは、ないのだけど。生と死と性が、複雑に絡み合う世界は、どこか虚しくて、寂しい。自分の中にある孤独を再発見していくなかで、それでも、葬儀に集まった親戚たちと、言葉を交わしていくうちに、死者にたいする尊厳を学んでいく。

 海外でロケが行われたシーンがある。たぶん、国や宗教によって、死を弔う方法だったり、死んだ後の世界の考え方だったりが、いろいろ違ってくる。彼女は、祖父の葬儀のあと、インドを訪問する。それが、示す意味だったり、捉え方はひとそれそれなのだが、僕は、すごく必然的な流れだと思った。死という、いっけん、悲しい事柄に該当するものにたいして、ふたをするんじゃなくて、日常の身近なところに、それは、あることを、教えてくれる。

 脇をかためる、親類たちの演技が、とてもナチュラルで、共感できる。家族って、そんなものだよねとか、たまに親族で集まったら、そういう展開が起きるよねっていう、すごくありふれた場面を、あらためてスクリーンを通して鑑賞するという体験は、今まであったようで、ないものなので、新鮮だ。親戚の叔父さんが煩わしかったり、小言をいってくる母を避けてしまったり、痴呆症の祖母を面倒に思ったりするけど、家族というシンプルな関係を、再構築していく物語は、力強い。

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012 「彼の見つめる先に」(2018)

<基本情報>
「ブラジル映画祭2015」で上映され、3年間の沈黙を経て、2018年、劇場公開された。
2010年の短編映画「今日はひとりで帰りたくない」を、ダニエル・ヒベイロ監督自身が、同じ俳優陣を起用し、長編化した。
盲目の高校生・レオと、幼なじみの女の子・ジョバンナ、転校生の少年・ガブリエルを中心に、若者の多感な日常を、いとけない部分を残しながら、鮮やかに映しだす。

 主人公のレオは、目が見えない。それをからかう同級生がいる。それでも、同じ教室で、みんなと同じように机を並べて勉強するシーンが、印象に残っている。障がいという特性を理由に、子どもたちを分断しない。きっと、ブラジルの教育環境では、はやいうちから、この社会に、多様な属性をもった人間がいることを知ることができる。たぶん、学校とは、本来、そうあるべきなんだということに気付く。

 そして、彼は、転校生のガブリエルと距離を縮めていく。その内容をみるかぎり、この作品は、障がいをテーマにしているだとか、同性愛を主題にしているという、誤解をうむことになる。一度、この作品を観て欲しい。ここで営まれている世界では、両親に愛され、クラスメイトの助けられながら日々を紡ぐどこにでもいる、目が不自由な男の子が、あたり前のように、ごく自然に、少年と恋をする。

 日本にも、同性同士の恋愛を描いたドラマや映画はある。でも、まだ色物扱いを、抜けきれていない。それは、まだ、性の多様な在り方や、LGBTといったセクシュアリティーにたいして、寛容になっていないからだろう。でも、まず、ここで僕ら当事者が、発信しなければいけないのは、この社会で、同じように悲しみ、傷つき、ときには、笑いあって、なんとか日々を乗り越えようとしている事実だけだ。それを、この映画は、教えてくれる。

 それでも、理解が生まれないのなら、適度な距離感を、保てばいい。なにも、みんながみんな、違いを認めあいましょうみたいな考えに、染まることはない。ただ、映画という手法で、同性愛や、障がいを取り入れたものを、世の中にむけて、作ろうとしている表現者がいることが、僕は、嬉しい。たぶん、そうすることで、社会における反感や差別に目を向けたり、新たな気づきがあるからだ。

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011 「しゃぼん玉」(2017)

<基本情報>
テレビドラマ「相棒」で知られる東伸児が、劇場映画で初めての監督を務める。
直木賞作家に名を連ねる、乃南アサのベストセラー小説を映画化。
社会から孤立している青年を林遣都が、田舎に住む老婆を市原悦子が、それぞれ演じる。

 道を踏み外し、非行に走る人がいる。そんなやつらは、どうしようもないんだから、社会からそそくさと排除されてしかるべきだという意見は、あまりにも、稚拙だ。悪に手を染めることでしか、生きていく手段がなかったとき、迷惑をかけず一人で死んでいくべきだったという理論は、この世界をどうしようもなく、息苦しくする。

 宮崎県の自然あふれる景色が、観るものを癒す。美しい映像なので、実際に訪れたい気持ちになる。たぶん荒んだ心を回復するには、緑に囲まれた場所で、ゆっくり静養することが、必要なのかもしれない。主人公の青年・伊豆見もまた、温かい田舎の人々にふれ、少しずつ更生していく。

 村で、一人で暮らすおばあちゃん(スマ)の台詞が、印象的。「坊はええ子」という言葉が、荒れ果てた伊豆見に染み渡っていくのが、分かる。誰にだって、褒められたい時がある。でも、世間というものは、冷たいのが常だ。この物語は、優しい素直な村人たちが、僕らに、生きる価値があるというあたりまえのことを、教えてくれる。

 居場所のない哀れみは、いつか焦燥にかわる。あなたは、そこにいてもいいんだよという、簡単な言葉が、届かない。必要とされることの難しさ、あるいは、人生が行き詰まるジレンマが、行く手を阻む。もう、どこにも行くあてのない人間が、豊かな精神性を帯びていく姿は、王道なストーリーかもしれないけど、胸をうつ。

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010 「ストーンウォール」(2016)

<基本情報>
1969年、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン 」で、店に立ち会った人々と、警察が衝突する。
それを、発端に巻き起こった同性愛者の権利運動は、後に「ストーンウォールの反乱」と呼ばれる。
「インデペンデンス・デイ」シリーズのローランド・エメリッヒ監督が、実話をもとに描く。
主人公ダニー役を、ジェレミー・アーバインが演じる。

 LGBTを題材にした映画である。当事者の僕は、そこを入り口に、観てみようという気になる。でも、たくさんの人に手にとってもらいたい。差別や偏見は、いけないと頭では分かっていても、どうしても、心の弱いところから、生まれてしまう。何も分からない、理解できない、自分とは異なる相手にたいして、少し怪訝な目でみてしまう。だから、僕たちは、内にひめた他人にたいする暴力性を、常に覚えておかなければならない。それは、なにもセクシャル・マイノリティーの問題に、かかわらずだ。

 ゲイであることが、苦しかったりすることがある。正直にいえば。その理由は、とても、くだらない。たまたま、目に映る他のひとが、とても幸せそうにみえて、自分だけが、うまく社会にとけ込めないなという劣等感。よく、それは、セクシャリティに関わらず、誰でもそんな時期は、あるという。でも、僕は、うまく生きれないことを、自分の性的指向が、他の人と違うからだと言ってもいいと思う。それくらいの、逃げ道は、用意されてしかるべきだ。後になって、やっぱ関係なかったなというくらいが、ちょうどいい。

 美しい容姿をしたレイは、体を売って暮らしている。その職業を選ぶのは、彼ら自身なのだから、そんな人生を送るのは、あなたに責任があるという言論は、聞いていてどこか虚しい。人間は、生きていかなければならない。苦境にたたされた人が、お金のために売春をする。それを、私達には関係のないことだと切り捨てるのは、やめてほしい。なぜ僕らが、この複雑な社会で、それぞれの立場で、平等ではない生い立ちで、文句のひとつも言えないほど、圧迫されているのかを想像するべきだ。

 当時、反乱をおこした無名の人々は、たぶん勇気がいっただろう。そんな瞬間の場面が積み重なり、今という時代が成立していることを、この作品は、教えてくれる。政治的な主張をするのに、暴力はいらない。だけど、現実は、ちがう。暴動になったり、怪我をする人だっている。それでも、忘れてはいけないのは、それぞれの意志に宿る信念だ。カオスが導く世界が、どこへ向かうのかは、誰にもわからない。

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009 「トマトのしずく」(2017)

<基本情報>
2012年に、すでに完成されていたが、公開が見送られていた。
「お蔵出し映画祭2015」で、グランプリと観客賞を受賞し、ようやく2017年1月に解禁された。
主演に、小西真奈美を迎え、相手役に吉沢悠が抜擢されている。
監督は「誘拐ラプソディー」の榊英雄が務める。

 誰にだって、相手との距離と取り方で、うまくいかないことがある。近しい存在であればあるほど、複雑な問題になっていく。家族という関係性は、その言葉では、簡単に言い表すことのできない、やっかいなものだ。同じ月日を、共有してきたからこそ、分かることだってあるし、分からないこともある。ささいのことがきっかけで、許すことができなかったり、意地になって仲直りする機会を見過ごしてしまう。

 この物語は、父と娘の行き違いが、軸となって展開される。疎遠になっていた2人が、娘の入籍を機に、お互いの存在を改め直していく。その過程が、言葉少なめに、丁寧に描写されている。不器用な性格だからこそ、思っている気持ちを素直に、口にできない。そのもどかしさは、僕らの人生に、どうしようもなく、降り注ぐ。いびつなまでの感情は、行き場を失う。

 幸せの形は、人それぞれだと思う。大学をでる、就職する、結婚する、子どもを授かる、そのどれもが、どんなに努力をしても、果たせない夢に終わることだってある。けれど、それで何もかもを、諦めてしまうことはない。ときには、自分の弱さが嫌になることだってある。だけど、それでも、幸せになろうと翻弄する姿が、僕は、好きだ。

 とくに激しい起伏があったり、山場が用意されているわけではない。そういった意味では、観る人を選ぶ作品かもしれない。でも、観終わったあとに、ほっこり幸せを感じられるつくりになっている。家庭菜園で、一生懸命、栽培されたトマトの色が、赤々しく、瑞々しい。それは、きっとこれからの、親子の関係をほぐす、役目となる。そして、愛を伝える意味を教えてくれる。