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008 「オマールの壁」(2016)

<基本情報>
第66回カンヌ映画祭ある視点部門審査員を、受賞する。
そして、第86回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、注目を集めた。
パレスチナ人であるハニ・アブ・アサド監督が、不安定な情勢下で生きる若者の姿を、力強く描く。

 主人公のオマールは、パン職人である。きっと、パン屋さんを営む人は、世界中にいる。毎朝、下ごしらえをして、生地を練り込んで、オーブンでパンを焼き上げる。それは、ありふれた光景かもしれない。でも、彼が背負っているものは、少し大きすぎたのだ。

 パレスチナ問題といえば、誰でも一度は聞いたことのある言葉だと思う。たまにニュースで、社会情勢について、報道される。その多くが、紛争により民間人が犠牲になったものだったりする。緊張下にある、その土地で、いったいどんな映画が製作されたのか。それが、気になり、僕はこの映画を観ようと思った。ちなみに、撮影もすべて、パレスチナで行われている。

 世界に目を向けるきっかけが、映画であってもいいと思う。日本に住んでいれば、占領されたり、銃声が聞こえたりする心配はないだろう。きなくさい空気に汚染されることもない。それでもなお、僕らは世界のことを知るべきなんだろう。学校で習う世界史には、何の興味もなかった僕が、こうしてブログでこんな発信をするようになるなんて、人間は変わるものだ。

 そして、それと同じように物語のなかの、それぞれの人物も、変わっていく。いくら紛争地帯で暮らすことを余儀なくされたとしても、彼らは生活していかなければならない。そこには友情だってある。恋愛もするだろう。それぞれが抱える葛藤を胸に、そこに生まれ落ちた定めをまっとうするかのように、懸命に生きる彼らは、なんといっていいか分からないけど、美しい。

 題名にもあるように、居住区を分離する壁が、登場する。それはまぎれもなく人間が作りあげたものだ。同時に、壁に翻弄されるのも、人間なのだ。皮肉なことに。この作品は、静かな熱を帯びている。僕は、そう思う。ラストのシーンで、オマールが下す決断に、息を呑む。劣悪な環境のなかで生きることが、いったいどこに繋がっていくのかは分からない。でも、希望を見出さずにはいられない。それが、人間という生き物なのだ。

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007 「オーバー・フェンス」(2016)

<基本情報>
佐藤泰志の芥川賞候補作を、確かな演技力を誇る実力派俳優を迎えて映画化。
監督は「苦役列車」の山下敦弘が務めた。
函館の職業訓練校に通う彼らを中心に、それぞれが孤独を抱えた人生に向き合う姿が、独特なタッチで描かれている。

 社会は、何食わぬ顔をして、優秀な人材を求め、そうじゃない人を追い込んでいく。能力の高い人が、それに応じた収入を得ることに、文句をいいたいわけではない。ただ、もう少し、生きることにぶきっちょうな人(例えば、僕のような)が、日の目をみることのできるような世界であってほしい。

 満島真之介が演じる森由人が、印象に残っている。彼は、いわゆる不器用で、それが原因で仲間からも疎ましく思われている。何をやっても上手にできない、感情をうまく表現できない、一人でもんもんと考え込んでしまう、これらの特徴をもったキャラクターが見事に再現されている。彼が想いを爆発させるシーンは、痛々しさをも、帯びている。でも、それでも、たとえ、たどたどしく話すことしかできないとしても、生活していかなければならないし、お金だって稼がないといけないし、なんだったら幸せにならないといけない。

 動物園で暮らす動物たちは、たぶん目の前のフェンスを越えることなく死んでいく。いわば、そこで生きていくしか選択肢がないのだ。でも、人間はちがう。たとえ、四方が壁に囲まれても、それを越えていく力が宿っているはずだ。生まれ持った個性を、発揮できる場所へと向かうことができる。自分の意思で。

 人生は、大半がうまくいかない。それは、長く生きるほど分かってくる。それでも僕らは、思いどおりに生きていくべきだ。やりがいのある仕事に就くことなんて必要ない。理想の人に巡り会い、愛のある生活が続く必要なんてない。希望のない日常でも、生きていく価値がある。なにかしらの救いがある。幸せは、誰かが独占できるものではない。そう、教えてくれる作品だ。

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006 「ダンケルク」(2017)

<基本情報>
クリストファー・ノーラン監督が、初めて実話を基に描いた作品。
第2次世界大戦時、史上最大の救出作戦と言われる「ダイナモ作戦」が主軸となって展開される映像は、迫力満天。
フィオン・ホワイトヘッドは、監督に大抜擢され、初の映画出演を果たす。
第90回アカデミー賞において、作品賞など複数の候補にあがる。

 これは、戦争映画だ。率直に言って。だからといって、戦火を交えることを賞賛したりはしない。ただ淡々に、かつて国と国が、利権を奪い合っていた事実を、いろんな時間軸で描く。そこで生きる個人が、どんな思いで生き抜こうとしていたか、あるいは、どんなに悲惨な状況でも、人間らしさを失わないでいたかを、スケールの大きい世界観のなかで、細かく再現されている。

 僕は、戦争を知らない。飢えた経験もないし、国のために自らの命を捧げる覚悟もない。上空から爆弾が落ちてくる恐怖を味わったこともないし、とんでくる銃弾をよけてひれ伏したこともない。だからといって、自分とは関係のない出来事だから、考える必要はないとは思わない。だれだって戦争はしたくない。人が死なない方がいいだろう。当時の人たちもそう願っていたにちがいない。でも、闘いの火ぶたは切られた。その真実は、深くこの胸に焼き付けなければならない。

 グロテスクな映像や、血がいっぱい出る残酷なシーンは、僕は苦手だ。でも、そんなことではすまされない行為が、往々にして繰り広げられた真実は、今を生きる僕たちは知っておくべきなんだと思う。知ったからといって、何かが変わるわけではないと、あなたは思うかもしれない。だとしたらこの映画を観るべきだ。観終わったあとに、他人を傷つけることの意味や、生きていくことの人間の執着について、考えたなら、たぶん、この作品の製作陣は、報われるだろう。

 もうすぐ、夏が来る。なぜかこの季節は、緊迫した気配を感じる。かつて、交戦した兵隊たちも、同じ暑さに汗をかいたんだと想像する。戦後70年を越えた日本に住んでいれば、戦争について考えなくても、暮らしていける。戦争について語ることは、困難かもしれない。でも、世界には、難民が大量に溢れ、行き場をなくした人たちがいる。空爆におびえながら夜を過ごす彼らがいる。クーラーの効いた部屋で戦争映画を観る僕たちが、考えなければならないのは、その危機感についてだろう。この映画が、語るべき神髄は、そこにある。

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005 「ポエトリーエンジェル」(2017)

<基本情報>
若手個性派俳優・岡山天音と、モデルとして、女優でも活躍する武田怜奈を主演に起用。
お互いのフレッシュな演技が、作品を盛り上げる。
あまり馴染みのない「詩のボクシング」というスポーツを通じて、若者の成長を鮮やかに描いている。
監督・脚本・編集は、気鋭の飯塚俊光が務める。

 リングにのぼり、自作の詩を読み上げ、観客により強く思いを届けたほうが勝者となるスポーツが、実際にある。僕は、そんな競技を、知らなかった。でも、一度、観てみると、案外興味を引く。映画に登場する各キャラクターが、思いのたけを叫ぶシーンは、どことなく不安定さを持ちながらも、しっかりと最期まで役を演じきる気概が、感じられる。

 人前で、自分が作った文章を声に出して表現するのって、どんな気持ちなんだろう。もちろん、恥ずかしいっていう思いもある。でも、僕らの人生には、ここぞというときに、声を出して主張しなければならない事柄が、存在する。この作品は、その初期衝動をうまく捉えた形だ。

 普段、言えない思いを抱え込んでいる人にはもちろん、観て欲しい。田舎で暮らす青年が、「俺だって、夢をみたいんだよ。」と父親に泣きつくシーンが、胸にささる。あなたが、あたり前に手にしている、可能性や、思い描く夢や理想は、一部の人にとっては、藁をもすがる思いで獲得したいものかもしれない。

 僕は、映画を見終わったあとの余韻が、凄く好きだ。そこには、まだ消化しきれない様々な感情がいりまじる。あのとき放たれた言葉の裏には、実はこんな考えが根底にあるんじゃないだろうかと想像してしまう。でも、この作品は、思ったことを素直に届けることの、崇高さを教えてくれる。夏が始まるこの時分にぴったりな雰囲気を纏った青々しさが、際立つ。

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004 「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」(2017)

<基本情報>
監督は、ジャン=マルク・バレ。
演技派で知られるジェイク・ギレンホールを主演に迎える。
原題は、「DEMOLITION」(解体、分解)。
容姿端麗な妻を亡くした男の、心の再生を描いたドラマ。
劇中で使われている、ハートの「Crazy On You」など、音楽の効果も、作品に大きな幅をきかせている。

 突然、家族を亡くしたときの悲しみは、その当事者にしか分からない。そして、それを乗り越えていく手法は、確立されているわけではない。人は、突然訪れた不幸に対して、ただもがく程度のことしかできないのだ。この物語の主人公は、一滴の涙さえ流さない自分に戸惑いながらも、不器用だが、懸命に、起きてしまった事故に向き合おうとする。

 原題にあるように、彼は身の回りのいろんなものを、破壊していく。そうすることによって、心の在り処を見つけようとする。周囲の人は、狂気じみた行為に、怪訝な顔をするのだが、それくらいが、丁度いいと、僕は思っている。大切な人を失ってしまったときくらい、人は不合理になってしまっていい。ずっと、正常でいることの方が、狂っている。それを、この作品が、教えてくれた。

 自分自身を、ゲイだと自覚し始める年頃の少年が、登場する。彼との交流によって、主人公は、素直に生きる術を学んでいく。一目もはばからず音楽にのったり、幸せでいるには笑顔が欠かせないと諭すように、一緒に笑ったりする。たわいもないやりとりが、徐々に、自分の成すべきことを明確にしていく。

 いってみれば、これは、悲しみの感情を、表に出せない人への、あるひとつの答えとも言える。ありとあらゆる感情は、綿密に、心の中に溜まっていく。それを吐き出す術をもたないくらいに、不健康なことはない。「愛は、そこにあった。ただ、それを疎かにしていた」と、気付いていく人間の、清々しと、実直さは、観る人の心をわしづかみにする。

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003 「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」(2017)

<基本情報>
詩人・最果タヒの同名詩集をもとに製作された、意欲作品。
監督は「舟を編む」の石井裕也が務める。
ヒロインには、映画初主演となる、石橋静河が抜擢された。
彼女の瑞々しい演技が、様々なシーンで輝きを放つ。
石井監督と相性のいい池松壮亮は、つかみどころのない、風変わりな青年を熱演。
現在、同監督による「町田くんの世界」が、公開中。

 日雇い派遣、孤独死、放射能汚染、外国人労働者などの一見、重々しいテーマを、東京の片隅でひっそりと暮らす男女が、心を通わせていく模様と交えて、描き出していく。2人が、徐々に距離を縮めていく過程が、丁寧に描写されている。ひとつひとつの台詞とともに、彼らが抱える感情や、孤独感、都会で生活する虚無感が、観る人の心にゆっくりと刻み込まれていく。

 「嫌な予感がする」と、劇中で彼らは、何度も確認しあう。いったいそれが何を指すのかは、分からない。震災、死、テロリズム、僕らに降り掛かる災難は、間違いなく、この先にあるのだという予期は、案外、間違っていないのかもしれない。でも、この物語は、悲しいままで終わらない。最後には、希望という、しっかりとした形のなかに、昇華されていく。

 どうして、人は、恋愛をするんだろう。悲しみを紛らわすために、くっついたり、離れたりするのは、本当に愚かだと思う。そんなことを言い出せば、まったくの純真無垢な恋なんて、存在しないとあなたは思うかもしれない。でも、べつにそれでいい。正しさや、清らかさだけを追い求める夢追い人は、きっと、そうじゃない人を、排除していくだろう。僕らの心の中の、真っ黒な感情が、誰かを救うこともある。この世界は、複雑で、それ故に、美しい。そんな気がする。

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002 「これが私の人生設計」(2016)

 これは、イタリアの物語である。海外の作品って、あんまり肌に合わないという人もいると思う。でも、この映画は、自然と腑に落ちたように、僕の心の隙間を埋めてくれた。とあるゲイ男性が、登場するんだけど、そのキャラクターが憎めない設定で、笑いを誘う。自分が、ゲイだからか分からないけど、同性愛者が描かれる作品に興味が惹かれる。

 たぶん、同性愛に限らず、セクシュアリティが僕の人生に大きく影響しているからだ。映画は、ひとつのフィクションに過ぎない。だけど、そこには間違いなく客観的な風刺が、影を忍ばせる。そこから繰り広げられる思考は、観る人の心を、解きほぐすかのように、安心をもたらす。

 主人公は、優秀な建築家なのだが、男社会で結果を残すことに苦労している彼女のひたむきさは、素直に心をうつ。たぶん、この映画を売り出そうとしてターゲットを決めるなら、おなじ悩みをもつキャリア女性になるんだけど、僕は、男性にも観て欲しいと思う。ある意味、女性が活躍できない社会は、反作用として、男らしさの呪縛を背負うことになる。男性が、泣き言をいえば女々しいと言われる社会は、生きにくいと、はっきり語らなければならない。性差別に、立ち向かわなければならないのは、なにも、女性だけではないのだから。

 集合住宅で暮らす少年、少女たちの目の輝きが、印象的だ。再開発案を練る主人公との交流が、微笑ましく描かれている。人が、営みのなかで、あるいは大人になっていく過程で、なにが必要なのかを、浮き彫りにしていく。生きにくいのは、あなたにも責任があるという言論に感化されないストーリーがある。他人のために、誇りをもって一生懸命になる姿に、勇気づけられるのは、間違いない。

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001 「パーマネント野ばら」(2010)

 例えば、女の子がうずくまって泣いている。少女から大人へと変化する時期の、彼女たちの憂鬱を、僕は、思い知ることはできない。およばぬ場面で、性的な対象として、見られることだって、遭ったかもしれない。ここで、フェミニズムについて、語ろうとは思っていない。ただ、女性の人生において、自分たちの力では、どうすることもできない苦難がある。それに、立ち向かわなければならないことを想像できない社会は、いささか生きにくいのではないか。

 なぜ、涙を流しているのと聞くこと自体、ナンセンスだ。社会で渦巻く憎悪や嫉妬や偏見が、思いもよらず、個人を傷つけてしまう場合がある。言葉にできない思いについて、語らなければ、その傷跡さえ、なきものにされてしまう現状を、変える手だてはあるはずだ。だから、だれかが声をあげるべきなんだと思う。それが、映画としての表現だっだとしても。

 この物語は、海辺の街で営まれる美容室が、舞台となっている。そこに集まる女性たちの恋愛は、決して綺麗ごとだけでは語れない人間味で溢れている。本当の意味での他人を愛するという醜さだったり、愚かさを、細かく描写し、観る人にとって、不思議な共感をうむ。誰かを思い続けなければ、正常を保っていられない彼女は、きっとまた、強くなれる。それを、証明してくれる映画であることは、間違いない。

 まず、邦画と洋画という区別がある。どちらを好むかは、それぞれだ。初めてのレビューで、どの作品にしようか、迷ったんだけど、やっぱり好きな映画にしようと思い、この作品にしました。洋画で観るような、派手なアクションだったり、壮大なスケールの世界観ではないけど、邦画にも優れた力作があるんだと、知って欲しいです。

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映画について、語ることがあるとするならば

 新しい風に、手をかざす。少しだけ、先が見える。心につながる道を通り過ぎる旅人は、いつか歩みを止める。そんなときに出会う言葉は、ありふれたものかもしれないけど、まっすぐ、響くに違いない。

・僕が何にお金を使ったのかという話
 率直にいって、映画が好きなのである。一時期、休みの日になるたびに、一人で映画館に足しげく通っていた。一日に2本だったり、立て続けに鑑賞したりしていたもんだから、順調に、お金は飛んでいった。なぜ、そんなことをしていたのだろうと今になって考えても、分からない。ただ、感情を揺さぶる形としての、なにかしらインプットされる物が、僕には必要だったのかもしれない。それは、屈折した感情のはけ口を探してさまよう、子羊のようだ。不安定な価値でさえ、認めることを許さない社会について、もの言いたげにして表現をする映画が、僕に生きる希望を与えてくれた。
 もし、映画について語ることがあるとするならば、僕は間違いなく、愛の風景を構築しようとする表現者の結晶について話すだろう。時代背景、社会的要因、ストーリー、登場人物、台詞、どれも映画を構成するものとしては、欠かせない。全てが歯車のようにかみ合ったときに起こす作用は、僕たちが生きる根源に、しっくりと影響を及ぼす。

・原体験
 ひとつ、具体的な作品を挙げたい。初めて映画をみた体験として覚えているのが、「猿の惑星」なのである。幼少期に、たまたまテレビで放映されているのを観たんだけど、最期の「自由の女神像」を発見するシーンに、衝撃を受けたのを記憶している。ここで、あらすじは説明しないけど、終盤で物語が、点と点を結ぶように繋がる瞬間が引き起こすエクスタシーに酔いしれた。

 とりあえず、僕が過去に観終えたものを、手短にレビューできたらなと思っています。映画の好き嫌いは、個人によって分かれるので、お前の感想なんていらないよという方は、スルーしてください。よろしくお願いします。