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思考

果肉に満ちる思想

 この世界は、全部、空想なんじゃないかなって、思う時がある。つまり、目に見えているすべてが、じつは偽物で、その中で、四苦八苦しながら、もがいている、人間の不安定な自我というのも、偽物のがらくたでできている。でも、やっぱり、変わらずに、朝がきて、この社会に、意味を持たせるかのように、ありとあらゆる事象に、光を、降り注ぐ。

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・火種
 僕は、本との巡り合わせを、信じている。あまり、興味の引かないものだとしても、ある日、人に勧められて、手にした書物が、とても面白かったり。その言葉こそ、今の僕が、必要としていたものだという出会いが、ある。けど、読書することにたいして、答えは、求めない。一定の解決を、もたらしてくれることがあったとしても、救われたりなんかしない。それ以上に、より多くの新しい「問い」が触発されること、熱望している。そんな体験の積み重ねが、社会を変える、火種になるのだ。

・魂の解放
 <近代>という時代が成熟し、解体し、その彼方までも、この本は、古くなるということがないのはどうしてか、という問いに、立ち向かうのもいいだろう。見知らぬ他者たちの間で、反響する新鮮な「問い」。魂が、広々とした空間を駆け抜け、あの時空の彼方まで、解放される作用が、発生してこそ、ほんの少し、明日への希望となる光を、つかみ取ることが、できるのだ。

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 本を読むのに、別に、頭がいい必要なんてないし、とくべつな前提知識も、必要としない。ただ、人生と世界にたいする鮮度の高い感受性と、深く、ものごとを考えようとする、欲望だけを、もちあわせていればいい。なにより、僕が、読書に惹かれるのは、表現という氷山の、もっと下の部分の巨大さの予感のごときものに、ぶちあたってしまったからかもしれない。自分で意識して考えたことなんて、ちっぽけなものなんだろう。その作家の本を読むということは、その人間が、何を、生きたかということを、覗き見ることだ。そこに、紡ぎだされている言葉たちを、噛みしめながら、果肉にみちている思想を学ぶ。

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扉の風穴

 神の存在を、身近に感じるのは、物語の中だけである。もちろん、ひとつの神話とも言える。僕たちは、それを、信じることもできるし、また、信じないでいることもできる。けれども、神話とは、真理の語られる様式でもある。さまざまな科学的、あるいは非科学的な見地から、真理の影を、つかみとることが、ここでは、問題なのだ。

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・過度な刺激
 僕たちが、他者との関係において、かたちづくってきたものとは、個我を、ひとつの牢獄として、切実に体感してしまう、感受性であったはずである。この世界を、感覚しようとするとき、自我の解体の危機に、さらされることが、度々ある。それほどに、目の前に、無限に果てしなく広がる景色は、その中で起きていることを含めて、刺激的すぎるのだ。

・概念化
 たとえば、体験することが、あまり新鮮にすぎるとき、それは、人間の自我の安定を、おびやかすので、それを、急いで、自分の教えられてきた言葉で説明してしまう。そうすることで、精神の安定を取り戻そうとする。それを、人は、「概念化する」と呼ぶ。けれど、その行為は、自らの意志とは無関係に、身を切るような鮮度を、幾分か脱色して、経験を、陳腐なものに、変えてしまうのだった。

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 「まったくわれわれ、おかしな動物だよ。われわれは心奪われていて、狂気のさなかで自分はまったく正気だと信じているのさ。」このように、インディオの知者は、語る。人間の身を包んでいる言葉のカプセルは、相も変わらず、自我のとりでとして、これまでずっと、機能してきたようだ。その壁を、越えたとき、真に、未知なるものとして、膨張する世界への、扉の風穴を、こじ開けたことになるのかもしれない。
 僕は、なにも、死に魅入られているわけではない。そして、何より、生が、持て余され、ひとつひとつの命が、光り輝く世界を愛するものの、一人だ。身体のかなたに、ひろがる、いちめんの生は、今日も、僕の中で、躍動している。

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遍在する光の中

 もし、消滅することによってしか、正しく、存在することができないとすれば、それは、美しいかもしれないけど、不吉な帰結だ。他の生命を、殺してしか、生きることができない僕らは、自己の存在を、原的な罪と、把握してしまう。けれど、無理に、ニヒリズムの方へ向かう必要は、ない。

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・必要な力
 消失という観念の核が、虚無へと向かうものとは、異質のものであることが明確であるならば、自己の消去が、新しい存在の輝きを点火する力を、もつだろう。そういった信仰を前提とした思想を、僕らは、僕らなりの、納得できる形で、つかみとってこなければならない。きっと、息苦しい時代を生き抜いていくには、原罪の鎖を解く道を、見いだしていく力が、必要だ。

・月のクレーター
 都合のよい自己弁明や、現状肯定の理論なんか、聞きたくない。個のエゴイズムを、絶対化する立場に立つかぎり、搾取する側とされる側の垣根は、越えられないだろう。だれでも、他の多くの人々の労働に、支えられて生きていることは、明白なのに、いつのまにか、ぽっかり空いた、月のクレーターのように、抜け落ちてしまっているようだ。他者たちの支えのひとつになることを、人は<生きがい>と呼ぶ。

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 つまり、人間は、なにが、本当に、良いことであるのかということを、考えないではいられないのだということを、僕は、言おうとしている。善や正義が、自分を犠牲にすることでしか、成り立たないとするならば、それとは、対照的な、自己を尊ぶという行為は、悪になってしまうのかということを、問い続けなければならない。
 恩寵による存在の奇跡を、その瞬間ごとに求め続けた先にあるものは、何なんだろう。自分の死のことを考えないようにしているのだという証言は、救いのなさを表現しているにちがいない。遍在する光の中をゆく、孤独な闇に、失墜する恐れをかき消すように、また、どこかで、陽が、昇ろうとしている。

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雲をつかむ

 いつまでも、纏わりつき、けっして離れようとしない自己は、なんて、あやふやなものなんだろう。自我というものは、実体のないひとつの現象であると、昔、とある詩人が、語っていた。きっと、彼は、はやばやと、明確に、意識していたのだろう。今や、それは、現代哲学のテーゼと、呼ばれている。

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・夢と現
 そっと、夢は、語りかける。日常の風景を、デザインし直して、頭のなかにある映写機で、再生しているみたい。夢が、現実の圧縮された模型であったり、予兆であることを示そうとする理論は、いつからか、闇の中に、消えてしまった。いったい、夢の中で起きていることと、現実で繰り広げられる、慌ただしい生活との境界線に、なんの意味が、あるのだろう。

・生きづらさ
 人間は、清く、正しく、生きなければならないという強迫観念に、支配されている。信仰者として、あるいは、生活者として、僕を貫こうとする意志は、脆くも崩れさってしまう。どうして、こうも生きづらさが、胸の中で、消えずに、留まり続けるのか。知らない人に、後ろ指を指されることを、無意識に、恐怖に感じるのは、まだ、覚醒が足りないからだ。

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 青い空に沸き立つ入道雲が、季節の変化を、知らせている。「雲」は、最も、身近にある自然だ。そして、実体のない浮遊物は、こちらの思念とは、無関係に、淀みななく、宙を、流れている。雲をながめ、雲の声を聞き、雲をつかみたい。綿菓子のような見かけなんだから、きっと、ふわふわしているに違いないと、考えていた子どもには、戻れない。きっと、人は、昔から、吸い込まれそうな、白くて、淡い色彩の美しさに、魅了されたのだろう。あの雲の中で起こっていることを、想像しながら、夏を待つ。