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自分のこと

無題

 今年で、30歳になる。その前に、片付けておかなければならない問題が、ある。かつて、僕のきれいな手が、好きだと言ってくれた彼は、隣には、もういない。

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・カテゴライズ、あるいは無意味
 中学生の頃、周りの男子は、女の子の裸に、興味が湧いてきだした頃で、楽しそうに、性について、語っていた。その話を、まるで、違う惑星の話のように、横で聞き流し、自分には、性的な興味は、一生湧いてこないんだとさえ、思っていた。僕が、ゲイ・セクシャリティという属性を有することに、気付くのは、後のことだった。
 以前、僕の心を震わせ、距離を近づけたいと思う、女性がいた。彼女と、付き合うことになったんだけど、一緒に、映画を観たり、話したりするのが楽しい時期で、それ以上、進展することはなかった。そういうのを、バイセクシャルというのかもしれない。けれど、そうやって、人をカテゴリーに分けようとする作業は、何の意味も持たないと、知ったことは、ひとつの救いだ。どこまでいっても、とんでもなく不器用な自分という存在が、ここにいるだけなのだ。

・もやもやしたもの
 こうしてブログで、自分のセクシャリティについて、語ろうと思ったのは、とあるゲイ男性のブログをみて、影響されたんだけど、それ以上に、もうちょっと、心の中にある、もやもやとした部分と、深く向き合うことが必要なのではと、感じたことが大きい。インターネットという開かれた場に、文章を綴るという手段を使って。顔を出そうと思ったのも、少なからず、リスクを負うことによって、生半可な気持ちではないと知ってもらうためだ。でも中には、そんな、他人の性的指向の話なんて、聞きたくないよと、いうかもしれない。

・もう一度言う
 だけど、もう一度言う。僕は、ゲイだ。(あるいはバイセクシャルだ。)もう思春期を迎えた頃の、うぶな子どもではない。だから、想像できる。性は、体やベッドの上の話だけではない。人生、そのものだ。それをいったところで、性的少数者について、理解してほしいなんていう、崇高な思いは、持ち合わせていない。顔を出して、性について語ること(それをカミングアウトと呼びたきゃそう呼べば良い)で、何かが変わるなら、世界は、もっと、はやくに良くなっているはずだ。
 ただ、みんなが当たり前にしているように、自分を語らずにはいられない衝動を、解き放ちたい。彼氏のことを、彼女に置き換えながら、嘘を交えて会話するのを、やめて、実直に、語りたい。異性愛が中心となって構成されている社会において、少なからず、誰にも相談できず、抑圧されている人間がいることを、知って欲しい。そして、声に出せず身動きをとれなくなっているのはなにも、ゲイや、レズビアンだけではないという事実に、思いあたらずにはいられない。

・多面的
 けど今はあえて、セクシャル・マイノリティについて言及したい。ニュースで取り上げられる難民の中に、ゲイがいる。耳が聞こえない聾唖者の中に、レズビアンがいる。不況の波に襲われ、路上で暮らしている野宿者の中に、トランス・ジェンダーがいる。それは、虚構でもなく、ただの突きつけられた現実であることは、少し頭を働かせれば、分かることだ。
 僕が、知って欲しいのは、この世界は、もちろん、幅があって、奥行きがあって、かつ、複雑な拡がりを見せている。そして、それは、案外すぐとなりに、欠片となって散りばめられている。そこで暮らす人々は、平面的なわけがなく、多面的に、形成された人格を持ち合わせている。理解し合うことが困難と分かっていても、気持ちを共有したり、慰め合ったりして、分かり合う方法を模索するのが、人間の姿なんじゃないだろうか。

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 これからさき、このブログに、どんなことを書こうか、まだ決めてないんだけど、よろしければ、お付き合いください。よろしくお願いします。

カテゴリー
思考

多数派としての、強者

 適応は、ときに、歪みを生む。希望を持てないほど、虐げられた民衆は、急激な変化を求める勇気を欠き、願望や期待を、実現可能なわずかばかりのものに、合わせてしまう傾向がある。いわば、苦境を、甘んじて、受け入れることによって、耐えるのだ。

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・理由の在り処
 例えば、不寛容なコミュニティにおいて、抑圧された少数者や、非常に、男女差別主義的な文化の下で、服従を強いられる主婦という存在に、気付かないようにみせ、無視し続けることを、不正義と呼ぼう。その悪が、のさぼっていることに、不満を感じる。
 僕らには、互いに意志を伝え合いたい、自分たちの生きている世界のことを、もっと、理解したいと思うのに、十分な理由がある。搾取的な産業において、悪条件で、働かされる労働者が、実は「真の仕事」を行っているのだとしたら、受け取る報酬を、公正なものにしたいと思うのは、それほど、特殊なのだろうか。

・砂の上の線
 必ずといっていいほど、国家の指導者は、群衆の悲惨な状態から、切り離された暮らしをしている。飢餓などの、国家の惨事においても、その犠牲者の苦しみを、共有することなく、生きていくことができる。かつては、無視され、不利な立場におかれた人々に、声を与えるという手段を、どうやって見つけていくのか。
 世界が大きく変化し、急激な社会思想の変化を、反映するように、僕らが、手にする権利は、拡大しつつある。公平で、好ましい報酬を受ける権利さえ、含まれている。人権の主張が、全面的に、受け入れられるようになるとき、世界は、正義の方向へと、舵を切る。それは、砂の上に、線を描くのと同様に、維持しがたいのかもしれないけど。

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 世界で起きる、多くのテロ事件の後、テロリストによる暴力に対する恐怖は、誇張されてきたかもしれない。たしかに、恐怖から解放される権利は、確保されるべきだろう。権利の主張は、利害の対立を生む。そのとき、優先されるのは、多数派のほうだということは、全く、珍しいことではない。権利は、誰のためのものなのかを、もう一度、議論してほしい。いつも我慢するのは、苦しい境遇に直面している人であるなら、それは正しいのかを、よく考えよう。