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思考

貧困は、だれの問題か

 都会の喧騒のなかに、なにかしらの真実が、含まれているなら、僕らは、それらをつかみ取るために、敷かれたレールに沿って、歩いていくしかない。でも、仮に、町に輝くイルミネーションが、まったくの空虚だとしたら、それはもう、歩くのをやめ、いったん腰をおろし、瞑想にふけるのもいいだろう。結局のところ、僕たちは、行き場のない人生の放浪者に、過ぎない。

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・生きるためのお金
 金持ちになりたいと、皆が言う。じゃあ、多額の金を手にして、一体何をしたいのだという問いかけに、困る。もしかしたら、本心はただ、働かずに、生活できる基盤が欲しいだけなのかもしれない。やりたくない仕事に、人生を捧げる人は、かっこわるいみたいな言論はさておき、僕だって、食っていかなきゃならないし、生活していかなきゃならないし、生きていくには金が、必要なんだから、働く。ストレスが溜まる。息抜きをする。また働く。緊張とリラックスの連続。そんな暮らしは、なんだかんだいって、結構、きつい気がする。

・ドミナント・ストーリーに潜む闇
 名をもたぬ者の語りを、一旦、自分のなかに収め、その後のアウトプットの際、一般化やラベリングが、必要になるときがある。それが、間違っているか、正しいかは別として、その行為そのものが、暴力であると、僕は思う。聞き手の都合のいいように語りを解釈し、再構築する思考は、一見、まともにみえて危うい。たとえば、差別する意識や、物語そのものを「ドミナント・ストーリー」と呼ぶ。そこに潜む偏見や、他者を忌避する心構えは、語りの中に存在する正しさに、色眼鏡をかけてしまうことになりかねない。あるいは、ゲイ・コミュニティー内で理想化される、解放の言論にも、少なからず、似たような闇が、存在する。僕たちは、何が語られているかを聞くのではなく、いかにして、語られているかに、注視するべきだ。もちろん、戦争の歴史にしかり、部落差別についてだったり、女性の権利運動なんかについても。

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 貧困が、社会問題として捉えられるのは、時代背景や、不条理な都合によって、個人の意志に反して、困窮状態に陥っていると、みなしているからだ。だから、どうにかしようという話になる。だけど、仮に野宿者が、公園にテントをはって暮らすのは、権利だと主張したとしよう。自ら進んで、野宿しているのだと、彼らは言う。だとしたら、そこにはもう、社会の問題としてではなく、個人の責任だけが、残ってしまう。
 言うまでもなく、僕らの住む社会には、肌の色、セクシャリティー、宗教など、いろいろな属性によって、いわれのない不利益を被っている人たちが、いる。それを、改善するために、本当に必要な分析の方法を、大胆に、かつ、繊細に選びとっていくしかないようだ。