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思考

<目の独裁>

 かつて、ジョン・レノンが、「イマジン」(想像してごらん)という歌を、うみだした。この歌が、こだましつづける、当時の日本は、どんな時代を、むかえていたのだろう。生き方が多様化してくるこの頃、市民社会の前提を、つきくずしてきたのかもしれない。でも、まだ、令状がくれば、戦場に行くというふうに、身体の中にプログラムされ、埋め込まれているのだとしたら、それは恐ろしい。

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・エンドレスリピート
 人は、生まれてきたときから、世界は、こういうものだと、教えてくる。だから、自然に、教えられた世界以外の世界を、見ようなどという、選択の余地を、奪われる。いったん、このような世界の在り方が、確立されると、僕らはそれを、たえまないことばの流れによって、死ぬまで、くりかえし、再生しつづける。

・世界を止める
 「商品に値段がある」とか、「お金で人を雇える」といった当たり前のことを、不思議に思う感覚は、一度、持ってしまうと、なかなか、離れない。一見、平凡なもののようにみえることも、少し考えれば、奇妙なこととして、問題的に感じることは、生きにくいのかもしれない。だから、「世界を止める」、すなわち、自己の生きる世界の自明性を、解体することが、僕にとって、必要になってくるのだ。

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 これまで築いてきた文明は、目に、依存していると、言われることがある。目の世界が、唯一の、客観的な世界であるという偏見に、満ちている。でも、そのような<目の独裁>から解き放たれたとき、はじめて、世界をきく、世界をかぐ、世界を味わう、世界にふれることが、できるのかもしれない。そのとき、この社会の複雑性を、知り、奥行きまでも、変えてしまうはずだ。

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自分のこと

最後の踊り

 自分の死を、みる見方は、個人の問題だ。肉体は滅びても、魂は残るという人もいるし、死んだ後は、何も残らない、ただ、ずっと無が、永遠に続くという人もいる。その答えは、たぶん、これからも、解明されることは、ないと思うんだけど、どちらにしろ、死はうつろな目をして、鳥にも、光にも、人間にも、小石にも、同等にやってくる。
 例えば、スラム街における貧困だとか、LGBTの人権問題なんかは、自分には関係のないことだからと言って、思考停止が、許可される。でも、死については、そうはいかない。だって、野宿する浮浪者も、政治を動かす指導者も、唯一、みんなが平等に、体験することだから。

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・逆
 ゲイだということを、家族に打ち明けるのかを、迷っている。前までは、別に言う必要なんかないやんって、思ってたけど、いつまでも、有耶無耶にできないという、現実が、迫っているのだろう。お前は、どんなやつと付き合っているのとか、いつ、結婚するのとかを話せない関係性は、親しいと言えるのか。職場の仲良しの人には、簡単に言うことができるのに、家族に説明できないって、順序が、逆なのかもしれない。

・社会に、切り込む
 つまらない悩みかもしれないけど、そんなことで、立ち止まって、考えながら生きている人間がいることを、知って欲しい。もし、無知が蔓延る世の中でも、そこまで想像する力を、拡大できたら、この世界は、いささか、生きやすくなるんじゃないだろうか。少数者だからといって、人と変わっているからといって、笑い者にすることが、だれかをひどく傷つけてしまっているということが、たぶん多くある。揶揄することが、すべて悪いとは思わないけど、悪質なものに対して、だれが声を上げるのか、どうやって切りこんでいけるのかが、いま問われている。

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 環境に配慮すべきだという言論が流布されて、長く久しい。感覚としてのエコロジーともいうべき、全体の流れにたいする感受性は、いまも僕のなかに、渦巻いている。持続可能な社会を求める好奇心が、死生観に大きく影響を与えることは、言うまでもない。死は、むしろひとつの存在だ。死は、人間の助言者であり、人が、最後の踊りを踊るとき、死は、そのそばにすわって見届け、踊りが終わりに近づくと、死が方向を示すのだ。