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それでも、僕らは幸せになりたい

 今の社会が、より良いものになっているかを、表そうとするときに、そこに住む人々が、幸福であるかという視点は、切り離すことができない。幸福を、評価の中心に置き、状況の良さを、判断するやり方は、長い歴史を持っている。では、実際、我々が、幸せであるということは、どのような状態であることをいうのか。

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・幸福と所得
 よく語られるのは、貧困か、そうでないかという見方だ。所得が多くて、不自由な暮らしでなければ、幸せで、所得がなく、食べるものに、困るのであれば、不幸であるとみなされる。たしかに、幸福と所得は、切り離されない関係で、一定の説得力を、もつ。けれど、例えば、障害をもつ高所得者と、低所得の五体満足な健常者を、比較するとき、どちらが自由を享受し、幸せに暮らしているかを考えるのは、難しくなる。

・何も、分からない
 貧困を、所得によって捉えることは、貧困の本当の厳しさから、注意を背けさせることになっている。知的で人間的な干渉によって、達成できることを考えると、ほとんどの社会が、障害という共有されない重荷に対して、いかに消極的で、独善的であるかは驚きだ。僕らは、僕らの住む世界のことを、何も分かっちゃいない。

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 即座に感じることは、本当に、正しいのかどうか。当たり前に蔓延る習慣を、疑うことは、案外、大事なのかもしれない。確信や、精神的反応の信頼性について、自分自身で、熟慮することは、精査されない感情について、理性的に、考え直す必要性を、主張することにつながる。幸福は、それ自身は、確かに重要だけど、僕らが、価値を認める、唯一のものでもない。幸福を、追求することだけが、人生の目的だという語り口には、少し、うんざりする。生きるということは、もっと、複雑なのだ。

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隠し持っているもの

 ある問題について、何かを考え、行動するとき、その人の、社会的な関係を、理解せずに、なぜ、それを、行うのかを、理解するのは、難しい。その人物の背景にせまるとしても、なぜか一つの限定的な側面からのみ、情報をつかみ取ってしまう。
 例えば、職場環境の改善を訴えるために、労働者が、声をあげるとき、労働者は、労働者としてのみ捉えられ、彼らの中に、それ以上のものを、見ようとはせず、他のすべてが無視される。それは、はたして、本当に正しいのか。

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・難解
 一口に、労働者といっても、例えば、ジェンダー、階級、言語、国籍、人種、宗教など、たくさんのグループに、属している。それを、一つの有力なアイデンティティによって、捉えようとする傾向は、自分自身を、厳密に、どのように見るかを決める自由を、否定することになる。僕らを取り囲む人間関係は、思ったよりも難解で、なにより根本的に、お互い影響しあう生き物であることを、忘れてはいけない。

・何者なのか
 労働者は、黒人だったかもしれないし、あるいは、ゲイだったかもしれない。もっと言えば、イスラム教の信者だったかもしれないし、アラブ民族だったかもしれない。とにかく、自分が何者であるのかと、定義しようとするとき、複数のアイデンティティを、共有していることは、稀なことではないのだ。それを、自由に表現することが、自分を、不利な状況に追い込むのだとしたら、それが、近代化した国家なのかと、目を疑いたくなる。

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 僕らの中に、隠し持っているアイデンティティを、見ようとしない傾向のある、今日の知的風潮に、反対したい。なぜなら、それは、どの社会も持っている、広がりや複雑さを、理解する上で、不適切だからだ。人間は、同時に、誰かの母であり、娘だし、あるいは、父であり、息子だ。個人が、複数の所属を持っていることを、考慮できないようでは、豊かな社会とは、なり得ない。