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思考

逡巡

 内輪で持ち上がる三角関係や、カップルの痴話喧嘩、TVドラマやワイドショーの中で繰り返される、陳腐なトラブルやゴシップ。それをくだらない、関係ないと信じていた頃が、あった。それはやや、傲慢であったかもしれない。今になって、自分の内側に膨れ上がる感情の激しさに、戸惑いを隠せない。

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・噛み砕けない事実
 「死は、生のひとつだ。」と、小説の一節が語る。たしかにそうだと、ふと考え込む。僕たちは、数ある選択肢を、慎重に選んで、あるいは選ばずとも、たまたま、今という場所にいる。そして、その中で、死を選ぶ人がいることを、多くの人が知っている。なにも、自殺を、肯定したいわけではない。そうでなくても、不条理な死は、いくらでもある。もっと、生きたくても願わなかった人生がある。でも、やっぱり、死を選ぶことも、「生きる」ことの選択肢の一つでないかという事実を、噛み砕けないでいる。消滅によって、成就できる生命があっても良いじゃないかという思考が、僕の中を巡る。

・むごい世界
 みんながみんな、学校である程度、均等な教育を受けているはずなのに、できあがる人間に、どうしてこうも、違いがあるのかを考えたことがある。違いはあって、あたりまえだし、それで良いというのは、少し呑気だと思う。遺伝子やら、DNAがという話をしたいんじゃない。目の前に広がる社会の仕組みの嘘を、暴くなんていう、たいそれたことは、できないけど、少なくとも、何が何でも正しいとされている中にある矛盾を、追求していかないと、ずっとこのままが続いていく。それは、なんていったらいいか分からないけど、結構むごいことだ。

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 悲劇とういのは、他人から見ると、喜劇だというけれど、その真ん中にいるひとにとってみれば、それはそれは、重苦しい試練であって、生きるか死ぬかの闘いだ。悲しみの渦中では、分からないことがある。起こること全てに意味があって、それらが愛おしく感じるなんてことは、きっと、もっと時間が経過したときだ。まだ、僕らの逡巡に、迷いに、決められないなにかに、胸が焼けそうになる。きっと、朝になれば、そんなこともつゆ知らず、新しい一日が始まる。

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社会の出来事

祈りが届かないとき

 僕は、ただ生きたいと、思っている。社会に貢献できているのか、あるいは生産的な仕事に従事しているのかとは、関係なく、ただ単に、生きたいのだ。そして、それは、ある程度、達成できている。命の保証がされている。今のところ。細かく言うと、他人に、どう思われようが、殺してしまいたいほど憎いと思われようが、それによって、人の生き死にが、左右されることは、許しがたい。あたりまえのことかも、しれないけど。

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・母親の重責
 今回、目黒で起きた女児虐待事件について、考察することがあるとするならば、子育てをすることが、今の社会で、どれだけ大変であるかではないだろうか。迷惑をかけてはいけない、なにか失敗をすれば、自己責任論が持ち上がる。そんな窮屈な世界で、子どもを養育しながら、かつ自分の人生を輝かせる生き方ができる母親が、どれだけいるだろうか。(そもそも、育児や責任が、母親側に偏っている問題が、ある。)全ての女性が、強いわけじゃない。

・閉鎖された場所で
 議論の的として、被害にあった女の子を、いかにして、救いあげることができたのかが、焦点になりつつある。それも、間違ってはいないだろう。でも、その家族を閉鎖空間へと導いたのは、まぎれもなく、社会の方であるし、さらに、いうならば、他でもない、僕たちであったはずだ。もっと、生きたいと願った女の子が、いた。親に愛されなかった子どもが、いた。愛されないのは自分が悪いのだと、自分を責める人間がいた。それを、忘れないでほしい。

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 生まれてくる全ての子どもが、健康に、健やかに、愛情を惜しみなく注がれながら成長できることを願ってやまない。だけど、僕らが生きている社会では、複雑な要因が絡まって時に、凄惨で、残虐な事件が発生する。どんなに強く祈っても、祈りが、届かないときがある。それなら、いったい何を思えば良いのだろうか。結局は、ひとつひとつ丁寧に、話を進めていくほかはない気がする。虐待は、なにも今回、表面化した事件だけではない。だから、できることがあるし、あるいは祈ることもできる。どうか、陽のあたらない孤立している家庭に、光が降り注ぎますように。