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思考

思想の相反性、あるいは馬と干し草

 現在、置かれている状況を、分かるように、説得しようとしても、うまくできません。自分にも、うまく説明できないことを、他人に向かって説明できないことは、当然と言えば、当然の話なのかもしれません。人は生きるうえで、何か、不変で、絶対的なものを求めるが、それは、結局は、主観的な解釈にとどまります。ある文脈の中でだけで、生きていくことができるのならば、他人に向けて手紙を書く必要もない。ある意味で、終結点に辿り着いたとして、僕は来るべくして、ここに来たような気もするし、また、あらゆる流れに、逆らって、ここまで来たという気もする。生きていくうえで、相反する思想が、つきまとってくることは、否めません。

 自分の人生に対して、必要以上に意味を、与えすぎていると思うかもしれません。生きていくということを、説明しようとすればするほど、順序が逆になったり、正反対の、言葉を間違えて、使ってしまったりする。細かく、解説しようとすればするほど、文章はバラバラになってしまうというのは、事実です。そこには、一頭の馬が、左右に干し草を置かれて、どちらを食べ始めればいいのかを、決めかねたまま、餓死してしまうといった類いの、悲しみが、漂っている。

 具体的な話をしたとしても、いつものように風が吹き、海から波の音が、聞こえてくることには、変わりはないし、都会なら、海を埋めたてた土地で、コンクリートでできたビルに、囲まれていることには、変わりはない。何が間違っていて、何が正解かは、自分で判断を下すことができない。ただ、初めから決まっていたルールに沿って、町ができ、同じように栄えては、廃れていく。歳を重ねることは、そういうことを、知っていくことなのかもしれません。