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思考

そこにあるものとして

 幸せというものは、そこまでして、複雑に考えるものではないのかもしれない。ただ、ふとしたときに、生きがいを感じることができればいい。それは、日常のなかでかいま見れる、ほんと一瞬なんだけど、愛おしい。夕日をみながら、今日も一日が、終わることを、かみしむことができれば、上出来だ。孤独に宿る魂が、火を噴き始めたとき、一人でいることの空虚さを、思いしるだろう。僕たちは、この生きにくい社会で戦おうと決意し、そして、幾度もなく、感情の扉を開いてきた。もし、それが何の意味も持たないとしたら、人生というものは、いささか、残酷である。

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・いっそのこと
 競争社会において、人より劣っていることは基本的に、問題とされる。仕事につけなかったり、貧乏な生活をすることになる。ときに、他人を蹴落として、這い上がる卑劣さを持ちなさいと、あなたは言う。そうであるならば、スタートラインは、同じにするべきではないかと、僕は言うだろう。障がいをもって生まれる人、勉強ができない人、要領の悪い人、貧乏な家庭に生まれ育った人、それらの全てを個人が背負い込まなければ成り立たない世界なんて、いっそのこと滅びてしまえばいいと思う。

・怒りを、あらわす
 それが成熟した社会だと言い張るならば、僕は、断固として反対する。人は、何の理由もなく頭が悪かったり、仕事ができなかったりする。そんなことを理由に、優劣を付けられ、社会から排除される世の中なんて、望んではいない。貧困のさなかで、誰からも援助されず、這い上がるチャンスさえ渡そうとしない仕組みが、あるいは、どん底から抜け出そうとする努力をあざ笑い、しょせんお前は、底辺で生きていればいいと吐き捨てる人間が、憎い。

・エクストリーム
 そんなものは、所詮、エクストリームな例でしかないと、あなたは言うかもしれない。大半の人が、普通の人生を送っているんだから、何の問題もない。そこにある「普通」という言葉が、僕には、暴力にみえる。普通じゃない人を遠ざける社会、一旦、道を踏み外した者の更生を鑑みないマスメディア、安易な情報操作で影響される大衆、そこには、もう希望という不確かな期待さえ、存在しない。だからと言って、簡単に絶望してはいけない。

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 人は一旦生きてしまえば、生き続ける。そこにあるものとして。あなたが、どれだけ、不快に感じようが、僕はここにいる。思想や、政治的信条によって、他人の生き死にが決定されるほど、恐ろしいものはない。不条理な死を、見過ごしてきた過去に、戻るのは嫌だ。だからと言って、今がベストな状態とは言えない。急速に変化していく社会が、どこに向かおうとも、良心にそって生きる人が、報われる日を待ちたい。

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思考

イマジナリーに、終わらない

 どうやって社会の変化を解釈しようかと、躍起になっている人たちがいる。急速に変わっていく世の中は、知ってか知らずか、あざ笑うかのように、彼らを黙認しているようだ。いったい、どれだけの人間が、幸福な未来を描けているのだろう。もし、仮に自殺した人の声をきけるのだとしたら、あなたは、どんな問いかけをしたいのかを思考するといい。そこには、きっと自分がどんな風に生きて、そして、死んでいきたいのかという複雑な考えが、絡み合っている。

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・吐露する
 貧困に苛まれる国民、豪遊するお金持ち、政治に無関心な若者、いわれもない差別を受けるマイノリティー、普通に振る舞いなさいと教育される子どもたち、みずから命を絶とうとする精神障害者、青春を謳歌する学生、大人になりきれない大人、余生を送る高齢者、悟りをひらいた僧侶、誰しもに思い当たる、基本的属性は、虚しく台所にあるシンクの水路に流されていく。もう、男をやめたい、女であることに疲れたと、吐露するのも、たまにはいい。どうやっても捨てきれない、自分の本質に苦しむあなたは、けっして、愚かではないはずだ。

・声を、あげよ
 学歴や職業、年齢、性別、国籍によって、どんな風に、扱われるかが、左右されるのは、かならずある。案外本人は、その属性のせいだと気づかない。「僕は○○だから、こんなひどい扱いをうけたんです」というのは、言い訳ではない。差別が、もしそこに実在したのなら、それは声をあげなければならない。けっして、自分を責めるんじゃなくて。

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 他人を理解するのは、難しい。なんでお前は、そんな馬鹿なことをしてるんだと思う時は、多々ある。特殊な体験をした人の話を聞いて、自分なりの解釈を加え(もちろん、一方的なものではなく)、社会背景と関連づけて文字にする作業は、いわゆるアカデミックな世界で、滞りなく行われている。そんな文章は、イマジナリーな役割でしかないという批判は、当然ある。でも、そこにある事実なんて、あってないようなもんだと決めつけるのは、愚行だ。
 いま、当事者たちが語る物語性に、耳を傾けなければ、いったい、どうやって歴史を認識すればいいのか、途方に暮れる。その人の人生に降り注ぐ、希望や不安が、たとえ目に見えなくても、現実社会に押しつぶされないように祈ることを、忘れたくない。

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社会の出来事

自分が勝てるゲームに参加すればいいと思っている

 通勤電車に揺られながら、みなが同じ格好をして、会社へと出かけていく風景は、何気ない日常のひとつに違いない。でも、少しでも違和感を覚えたなら、あなたは、その直観に従って、生きるべきだと思う。どこかしら誰しもに、みずからを解放する時間が、きっと必要なのだ。僕は、なにも毎日、汗水流して働くひとが全員、不幸なのだとは言っていない。
 みんなが嫌がる、やりたくない仕事を、誰かが請け負っているからこそ、社会が潤滑に進んでいるのだし、感謝すべきだ。でも、ずっと必要以上に我慢して、それこそ身体を壊してしまうまで、労働に勤しむことはない。みんながみんな、好きな生き方を選択すればいいと思っているし、過去の伝統的な価値観に縛られる必要は、ない。

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・苦痛
 不登校の10歳の少年が、youtuberとして、世間の注目を浴びているのをみて、さまざまな意見が飛び交う社会は、案外、正常なのかもしれない。まず、僕が思ったのは、義務教育を終えて立派な社会人になることが、ひとつの全うな生き方という考えが、自分のなかに、案外おおきな塊としてあるということだ。だから、学校に行かないという選択をする子どもの主張に、モヤモヤとした感情が生まれた。自分も苦労して、学校に通ったんだから、僕が感じた苦痛から逃げるあなたは許せないと、言いたいのでない。

・批判
 学校にいかないという選択と、学校に通う生徒はみんなロボットのようで、自分で物事を考えない人間を量産しているという考えを、同じに扱うことを避けるべきだろう。もし、彼が、学校で、教育をうける子どもを愚かだと位置づけるなら、批判がたつのは当然と言える。

・許容
 同じ教室にいる生徒たちは、ひとつの空間に存在している。でも、だからと言って、みんなが同じレースに参加している訳ではない。それぞれの人生の隙間に転がり込む彼らは、それこそ階級、性別、人種といった、様々な社会環境のなかに属していることになる。つまり、そこには複数のゲームが、展開している。その中から、合理性を鑑みて、自分が勝てるゲームに参加すればいいと、僕は思っている。要は、くしくも、この社会は、自分が選択した人生に責任を持ちなさいと、けしかけてくる。その残酷な真実を、呑み込めさえすれば、どんな生き方も、許容されるべきだろう。

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 人の人生なんて、それぞれだよね、って言えれば、楽なんだけど、どうやら社会は、なにか正解を欲しているのだろうか。ある意味で、暴力的に、あるいは刹那的に。不安に駆られる衝動と、豊かな暮らしを求める人間性は、初夏の遠い青空の中に、飛んでいってしまう。僕らは、自分のことを正常だと、思い込んでいるに違いない。
 いうまでもなく、学校に通うことで、成長できる部分もある。でも、同じ教育を受けたからといって、みんながみんな素晴らしい人間になるとも限らない。学校に、いかなくても、目覚ましい才能を発揮する人もいる。混迷する社会において、絶対的に正しい選択なんて、ないんだから。そうだとしたら、自分に合った人生を歩むべきだと、僕は思う。