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日常・コラム・エッセイ

人というものは

 SNSで、お月見にちなんだ商品を紹介する動画が、たえず流れてくる。みなが美味いと絶賛する。僕も子供のころ、秋になると月見バーガーを食べるのを楽しみにしていた一人だ。久しぶりにとマクドナルドに足を運ぶ。実際に食べてみると、全然美味しくない。それは、僕の味覚が変わったからなのかは、分からない。でも確実に、美味しくなかった。

 世の中で、もてはやされているメニューはこんなものかと思う。そりゃ、あの価格で勝負しているのだから、高級店のような味を期待されては困るという意見もある。流行りにのっかると、とんでもない目にあうというのが分かった。たとえ、話題になっていたとしても、美味しくないものは、美味しくない。その自分の感覚を、信じてもいい年頃になったのかもしれない。

 テレビは、いろんなニュースを報道する。ジャニーズ性加害問題、福島第一原発の処理水の海洋放出、物価高に対する政府の経済対策。きっと、どれも大切なことなんだろうけど、僕があれやこれやと考えるには、問いが大き過ぎる。誰が真実を語り、誰が嘘を言っているのか。はじめから疑ってかかるのも、めんどくさい。本当は、これから先のことなんて分かりませんというくらいの方が、信用できる。かみ合わない議論が続く状況は、なんだか滑稽に見える。

 それより僕にとって意味があるのは、近所の商店街で美味しいご飯が、びっくりするような、庶民に優しい値段で売られていたり、いつも行く洋食屋さんのマスターとの会話だったりする。この世界では、とんでもないことが起きているんだと思う。それを見逃さないでおきたい。だから、とりあえず、マスメディアが垂れ流す無意味なことは、シャットダウンする。雑音がなければ、深くえぐりとられた、生の新鮮で身近な情報に反応できる感性が冴えるからだ。

 この世界は、なにか常に揺れ動いている。僕らは、それにつられるように、右へ行ったり左へ行ったりする。だけど、思う。結局、自分が死ぬとき、誇れるものがあるとするのなら、それは何を変えずに、生きぬいたかではないか。その変えなかったことは、きっと人それぞれ違う。その人の核というか、芯の部分に触れたときの感動は、計り知れない。だから、とりあえず心を、社会に開いておこうかと思う。それが、人というものなんじゃないだろうか。

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社会の出来事

問いかけは、こだまになる

 今日は、ちょっと真面目な話。いわゆるトランス・ジェンダー(以下、トランス)や性自認のことについて。この類の議論になると、とたんに(あえて意地悪な言い方をするけど)頭の悪さが炸裂している意見を、いくつも目にして、なんだか虚しい気持ちになる。そこに知識人(何を専門にしているのかは知らないけど)や、著名人までも、一緒になって、女性の安心を守るために、トランスを排除しようとか言って、浮かれ騒いでいる。そのことについて、僕の考えを述べる。

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・イメージの不足

 そもそも性自認ってなんなのっていうところから。大半の人は、生まれ持った身体の性別に、違和感を持つことはない。僕もそう。男性器があることに、なんの苦痛もない。それは身体構造における性と、自認している性が、一致しているから。けれど、いま、知られてきているように、その二つの性がそぐわない人たちがいる。

 そこで、手術に踏み切る人もいる。それは、身体の性別を変えるというより、もとの性別に戻るという感覚に近いと聞いたことがある(僕も、その辺は想像でしか書けないけど)。そこまで嫌悪感が強くなければ、そのままの人もいる。だから、みんながみんな、処置を行うわけじゃない。

 恋愛の対象にする性別はまた、違った問題。生まれきた身体は男性で、自認する性は女性であっても、性的指向は女性のケースもある。自分は女性って言うのなら、好きになるのは男性なんだろっていう決めつけは、正直、ナンセンスだ。そもそも性的感情を抱かない、アセクシャルの人もいる。

 そして、なにも自認する性別は、男と女だけとは限らない。どちらの性別にも属さないXジェンダーと呼ばれたりする。ここで頭の硬い人たちは、混乱する。性別って、男と女だけなんだから、そんな性別なんて、認めないというのである。だから、身体が男で生まれてきた人は、男性として扱うし、身体が女で生まれてきた人は女性として扱う。性自認なんていう概念を認めてしまえば、社会がめちゃくちゃになる。

 僕は、それでは、これからどんな世界を望んでいくのかというイメージが不足していると思う。抑圧されながら自分を押し殺して生きている人が一定数いるのを放置したまま、誰もが幸せに生きれる世界にと理想を掲げるのは馬鹿らしい。ただ良くないところを変えていく。それだけだと思う。

・知性を取り戻せ

 もしトランスの権利を認めてしまえば、男性器のついた、女性を自認している人間が女風呂にはいってきてしまう。そうなると、女性は危険にさらされ、著しい権利の侵害だという。それはそうだ。でも一歩立ち止まってほしい。その部分は、トランスの当事者たちが、もっともセンシティブに考えている部分ではないか。その当事者たちの声を聞かず、排除する正当性を持たせようと、極端なケースだけをかいつまんで、必死になって批判しようとするのは、果たして、知性的なのか。

 例えば、トランスだと嘘をついて女風呂に侵入してくることを考えるなら、それは、彼ら彼女らのトランスの当事者の問題ではない。悪意を持って犯罪を犯そうとする、性別違和を持たない、いわば、私たち側の問題である。それをすり替えて議論が進んでいくのは、間違っている。

 そもそもトランス当事者の方が、公共施設において自分の思い通りの性別の利用を求めているのか。女性の権利を守ることと、トランスの権利を尊重することは、本当に対立構造にあるのか。まるで、トランスが行き過ぎた権利を主張しているような情報は、フェイクではないか。繊細な問題であるからこそ、慎重に丁寧に考えていく必要がある。僕はそう思っている。

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 いまでこそ、性同一性障害やトランスという言葉が、知られるようになった。でも、それよりも前に、性的マイノリティーと呼ばれる人たちは存在していた。その人たちの生きづらさを思い浮かべてみる。というか、どうやって生き延びてきたんだろう。自分の苦しみを誰にも理解されず差別され、毎日、泣いてばかりいたんじゃないだろうか。あるいは、日常を淡々と、しなやかに強く過ごしてきたんだろうか。

 性は、全ての人の問題である。人間の本来の生き方を模索する僕らにとって、見過ごせない問いかけは、こだまになって、舞い戻ってくるみたいだ。愛の形が、様々であるなら、生き方だってそれぞれでいい。まあ、とりあえず、生きよか。

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