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自分のこと

踏みつけられたアゲハ蝶のように

 心の迷いが、僕を、浸食していく。複雑になっていく社会で、行き場のない孤独ほど、手に負えないものはない。幸せのピースを拾い集めながら、地に足つけ歩む者を、馬鹿にするように、街のネオンが、煌煌と輝く。どうして、手にしていることに目を向けず、足りないものだけを、欲するんだろう。新しい感情に惑わされるたびに、今を生きる意味を探してしまう。たぶん、答えなんてないのに。かつての偉人たちは、私は、どこから来て、どこへ向かうのかを問い続けてきたんだと思う。

    ★       ★       ★

・リビドー
 周りの友達が、抑えられないリビドーについて語ったり、あるいは、発散させたりするなかで、僕は、まるで蚊帳の外だった。ただ、コントロールできる範囲の振り幅で、笑ったり、泣いたりする日常は、どこか侘しい。心の中では、臆病の化身が住み着いたように、なにもかもに怯えていた。大人になっていく周囲を横目に、いつまでも辿々しい自分に劣等感を持っていた。

・下賎、あるいは当事者として
 ホモ・セクシュアルについて、なぜ話す必要があるのかと、あなたは思うかもしれない。だけど、性的欲望について、おおっぴらに語ることは、下劣だと批判し、抑圧してしまう方が、僕は下賎だと思う。例えば、就職活動の面接の場面で、性的指向を持ち出すことへの評価は、わかれる。人事の人が、どう感じるかは、僕には全然分からないが、その話をしようとする学生の気持ちは、少しながら推し量ることができる。ひとりの、当事者として。

・誠実を求めるならば
 自分の人生に対して誠実であろうとすれば、自分がゲイであることに対しても、同じように誠実ではならなかった。ただ、その一点に尽きる。初対面で、お前のそんな話なんて聞きたくないよと思う人もいるかもしれない。だけど、その場面にいたるまでの葛藤とか、不安とかを想像できないのは、控えめに言って、少し無神経なんじゃないだろうか。カミングアウト(この言葉が、適切かどうか分からないけど)をしなければいけない状況を強いている現状をかえるには、こうして、当事者の本音を晒すしかない。

     ★     ★     ★

 命あるものと、ないものの境目は、埋まらない。そこを、横断できるのは神様だけだ。歩道の脇で、踏みつけられたアゲハ蝶の死骸が、ひっそりと鮮やかに発色している。たぶん、生き返ることはない。死んでしまったものは、ずっと死に続けるという事実は、隠しようがない。きっと、美しいものの一部には、死の匂いが含まれる気がする。

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映画レビュー

016 「南瓜とマヨネーズ」(2017)

<基本情報>
魚喃キリコのコミックを、実写化。
監督は、「ローリング」の冨永昌敬が務める。
主人公のツチダ(臼田あさ美)と、その恋人・せいいち(仲野太賀)の揺れ動く、関係性を、独特のタッチで、瑞々しく描く。

 恋愛をテーマにした映画って、すごく難しいと思う。他人と、どう向き合うのかは、価値観が、ひとそれぞれだから。ある人の共感をえたとしても、その一方で、理解がえられないなんてことは、多々ある。だからといって、万人受けするストーリーは、ありきたりな展開になって、つまらない。

 ミュージシャンを目指すせいいちは、信念というか、音楽にたいする熱意を、持ち合わせている。でも、それだけでは、人生はうまくいかない。暮らしていくには、お金がいる。やりたくない仕事だって、しなければならない。そんな彼を支えるツチダは、キャバクラで仕事をするようになる。どのシーンも、とても地に足着いた演出に溢れていて、うまい具合に生活感を漂わせている。それが、観ている人に、リアルな印象を与える。

 中盤に、突如、元彼氏・ハギオ(オダギリジョー)が登場する。その彼の性格が、人懐っこくて、すぐ他人の生活圏に足を踏み入れるようなやつだ。どこか、危なっかしい雰囲気に、ツチダは、再び惹かれていく。そんな、彼女の行動が、正しいとか、間違っているとかの議論は、もはや、ばかばかしい。恋愛なんてものは、そもそも、真実とか、常識とか、既成概念を相手にせず、どれだけ自由になれるかに、かかっている。おろかな人間の、心に潜む孤独を暴きだす、とてつもなく、厄介なものだ。

 胸が苦しくなって、なにも手につかないなんて、そんな感情は、もうない。だけど、映像を通じて、そのほんのわずかな面影を、思い出す。それは、とても幸せな瞬間だ。どこのだれかも分からない、スクリーンの中の登場人物に思いを馳せる僕らは、なんだかんだいって、安易だなと思う。でも、それでいい。かしこまる必要なんて、ない。自分が生きやすい方へ歩くという、シンプルな考えは、案外、力強い。

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映画レビュー

015 「きっと、うまくいく」(2013)

<基本情報>
インドで、2009年に公開され、大ヒットした。
屈指のエリート理系大学ICEで、繰り広げられる騒動と、その10年後の物語をベースに、二つの時間軸で、ストーリーが進行していく。
大親友の3人組が、それぞれの生い立ちや、将来の展望を語りながら、絆を深めていく。

 まず、170分という長尺に、少し尻込みしまう人は、多いかもしれない。その上、文化も習慣も違う、インドの映画を観るまでの、ハードルが少し、たかい。だけど、この作品は、そんな悩みを吹き飛ばす、決して観終わったあとの後悔のないクオリティーに仕上がっている。海外の作品を観ると、少しその国について、理解が深まる気がする。その上、エンターテイメントとして成立してしまう、インド映画の底力を感じる。

 大学の学長の方針は、競争に勝つことが全てだ、相手を蹴落として、自分が一番になることを標語にしている。彼は、男ならば、エンジニアに、女ならば医師になることが、幸せの道だという確固たる自信に満ちている。競争社会で知られるインドの、お国柄にそった人だ。だけど、型破りなランチョーは、その教育の在り方に、異議を唱えていく。

 そして、この映画では、「圧迫」という言葉が、幾度となく発せられる。その背景には、若者の高い自殺率が、関連している。人生における成功を掴むために、高学歴を求め、そのプレッシャーに押し潰される。本当にやりたいことと、親が望む進路の狭間で、揺れ動く若者の、切実な心理状況が、巧みに描かれている。

 日本では、大学に行く意義が問われ始めている。何の目標もなしに、ただみんなが進学するから、そうする。純真に、ただ学問を学びたいという学生は、一握りかもしれない。どこに向かうかが分からなくなったとき、「きっと、うまくいく」と、心の中で呟けばいい。生きることへの虚無感、失望、不安、それらの、全てを吹き飛ばす力を、この作品は与えてくれる。

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詩的表現

エクリチュール

僕。

私。

俺。

いくつかの

一人称のなかから

選択することを

余儀なくされる。

その過程を

だれかに

伝えることはできない。

僕の中で

繰り返される

自問自答。

自分は

いったい

何者なんだろう。

知らぬ間に

既存の

ルールに

縛られている。

エクリチュールに

乗っ取って

書かれる

文書は

すでに

社会との関係が

基本にある。

探していた

答えは

宇宙に

吸い込まれてしまった。

見知らぬ人の

命が、途切れたことを

報せるニュース。

どうして

死んだのが

その人で

僕じゃなかったんだろう。

とりあえず

まだ、生きている。

逆境に

立ち向かう

強さなんて

ない。

だけど

できるだけ

真摯にありたいと

思う。

生きることに

たいして。

朝焼けの光が

カーテンの隙間から

顔をのぞかせている。

昨日の

雨は

あがったみたいだ。

もう

ときめきを

止めることは

できない。

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自分のこと

夢のもとに跪け

 とりあえず、息のできる場所に、逃げたかった。夜になると、近くの港まで自転車を漕いだ。そこから、向かい側にそびえるビル群の明かりを見ながら、祈りつづける。どうか、このさき、今よりも闇が深まりませんようにと。セクシュアリティーを自覚し始めた高校生の僕は、毎日そんなことをしながら、日々を乗り切っていた。たぶん、学校とか、社会のなかで、居場所を見つけられない孤独を、紛らわせていたんだと思う。
 悲しみの感情とは、逆に、ずっと、こんな景色が見れたらいいなと願う、幼くて、脆くて、はかない考えが、頭の中にあった。「感受性」という言葉が、どんな意味を持つのかが、あまり分からないが、それが僕の中で膨れ上がり、現実という高い壁を、無様にたたき壊す想像を張り巡らせていた。青春という、淡い気持ちは、確かに存在していたが、それよりも、何者にもなりえない自我を抑制することが、勝っていた。将来なんてものは、微塵も考えず、あれから長い年月を経て、今、順調に、僕は、くそな大人になりつつある。

    ★     ★     ★

・セクシュアリティー
 「おっさんずラブ -in the sky-」の放映が始まり、注目を集めている。たぶん、僕が子どものころから、ずっと観さされていた物語は、男と女が惹かれあう、恋愛ストーリーだ。異性愛を前提とする社会のなかで、それが強制されてきた頃に比べれば、同性愛をテーマにしたドラマが、できるのは、ある一定の評価ができる。セクシュアリティーという繊細な問題にたいして、コミカルに表現する手法は、斬新だ。

・アイコン、あるいは人間の一部
 だけど、LGBTの人たちって、こんなドラマみたいに、突然キスしたりするんだと、思われては困る。あれは、フィクションだから、そういうつくりになっている。観る人にとっては、興味をひく展開なのかもしれない。だけど、同性愛は、決して、異性愛者を喜ばせるアイコンじゃない。学校や、会社や、地域で、あなたの隣にいる、身近な人の性的指向に過ぎない。あるいは、人間の一部だと言っていい。そこには、笑えない問題もある。差別や、偏見を恐れながら、毎日を過ごしている当事者も、いるかもしれない。そのあたりの、リアリティーを、僕は、見落としたくない。どうか、性の多様性が、したたかに、声高々に、唱われる社会になることを、願っている。

     ★     ★     ★

 夢の話をしたところで、意味なんてない。だけど、間違いなく、無意識と意識の狭間の現実と、関連する場合がある。朝を向かえ、目を覚ます瞬間に、それはくっきりと輪郭をのこし、僕の脳裏に刻まれる。それは、非情な世界に咲いた、一輪の花のように、幻想的な体験だ。何を、言いたいのか分からないけど、そんなときは、ただ、夢のもとに跪くしかない。

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社会の出来事

僕の全て

 各々の考え方で、生きたらいいじゃないかと、僕は思う。地位や名誉や威厳を、保ちたい人は、そうすればいい。人間関係に煩わされたくない人は、無人島に住めばいい。働きたくない人は、自由にしたらいい。それで、社会が崩壊してしまうなら、そのときに考えよう。
 高齢化していくなかで、社会保障の財源を、どう確保するのか。もちろん、シビアな問題もある。だけど、なんだかんだで、変わらない営みが続くのは、人間のもつ理性のおかげである。税金を払おう、つらい朝に、めげずに通勤しよう、知識を身につけ、役に立つ大人になろう、それぞれが、なんらかのルールにそって生きている。それを、僕らは「秩序」と呼ぶ。

     ★     ★     ★

・そんなジャーナリズムなんて
 とある芸人さんが、納税を怠ってしまったことについて、無責任であると、テレビが言う。それは、分かる。でも、名前の売れている人の不祥事をとりあげるのって、くだらない。失敗をおかしてしまったことについて、ある一定の社会的制裁を受ければ、それでいいんじゃないかと、思う。何回も、何回も、顔や名前をさらして、まるで、悪の権化みたいにするのって、極端にいって、不愉快だ。もっと、取り上げられなければならない事実が、たくさんある。それらを無視して、一人の人間を責め立てることしかできないジャーナリズムなんて、いらない。

・パラダイム
 冷戦が終結したとき、あるひとつのパラダイム(理論的枠組み)が失効する。世界における理解の視点が、バラバラになり、それぞれの個人は、自由になる。それから、世の中は、どんどん複雑になる。テロリズム、排外主義、自国ファースト、貿易戦争、すべてが、いまに繋がっているのだ。たぶん、僕らは、なにを大切にすべきなのかを見失っている。分かりやすい数字や、株価に踊らされる光景は、ほんとうに愚かだ。

    ★     ★     ★

 僕と社会をつなぐ物語が、シンプルで、かつ強固なものであるとき、それは、心の平穏を連れて来る。でも、人生は、そんなに簡単じゃない。信じることを、やめてしまった瞬間に、ぼやけていく、他人との関係性。自分を自分たらしめる、理由や、必然性が欠如しているのだ。だから、とりあえず、歴史をたどってみる。たぶん、宇宙の始まりから考えたら、僕の生きてきた30年は、1秒にもみたない。だから、どんなにやりきれないことも、それだけのことだと、うけ流していける。勇敢にもなれる。ただ、もし、一人で泣いている人が、いれば、そこに寄り添いたい。それが、今の僕の全てだ。

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詩的表現

レトロニム

もう何もしたくない。

本心を言えば

そうだ。

心情を

吐露することでさえ

無意識に

避けてしまう。

こうあるべきだという

模範が

たまらなく

ばかばかしい。

僕の思考を

がんじがらめに

縛り付ける

常識や規範。

もう

そんなものは

はじめから

なかったかのように

自由になろう。

してはいけないことなんて

なにもない。

人の行き来を阻む

国境なんて

存在しない。

世界を

放浪する

旅人の

足をとめる

権利が

いったい

誰に

あるんだろう。

あなたの

信じる

神は

してはいけないことを

決める。

信仰を

とめることはできない

人間の

あるべき姿を

示せる人なんて

存在しない。

だから

自分の

価値観を

押し付ける

行為が

もっとも

浅ましいことに

はやく

気づけ。

今日も

何処かで

レトロニウムが

生み出される。

新しい概念が

古いものを

更新していく。

未来を考える

時間もなく

あっというまに

過ぎ去る日常。

不器用すぎる

あなたは

ただ

生きるのが

下手なのだ。

この僕と同じように。

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思考

心の違い

 人間の性質を、まざまざと浮き彫りにする歴史は、もうだれにも目に触れない海の奥底に沈んでしまったかのように、ひからびてしまう。人と人が争い、殺し合いまでしてきた末に、訪れた平和の意味を、置き去りにし、相も変わらず、自分だけが幸せになろうとする。

     ★    ★    ★

・アナキズム
 権力や権威自体が、悪いことではない。国単位の大きなものを統治するには、それが必要になるんだろう。この世界が、不条理であふれ、不公平に扱われることを、僕らは肌で、感じている。アナキズムに傾き、革命を志し、失敗を重ねたのは、けっして意味のないものではない。問題は、公人であるはずの彼らが、大衆の私財を奪うことだけに、集中していることだと思う。それも、少数の蓄えがある人ではなく、切り詰めて生活する、一般市民から、搾取しようとする。

・糊塗し続ける僕らの行く先
 社会福祉が行き届いて、老後も安心して暮らしていける国にしたいと、切に願っている。良いことをしていく、というシンプルな方針を、疎かにし、いかに税を絞りとるかに躍起になる。お金は、湧いて、でてこない。僕にだって、分かる。それでも、失敗を糊塗し続ける先に待ち受けているのは、絶望でしかない。それを、予期しているのは、けっして、保身に走る、頭のよい政治家だけではない。みんなが、わかっている。だけど、必死になって、平穏な日常を守ろうとしている。その努力を踏みにじるな。それを、僕は言いたい。

    ★     ★     ★

 一度でも戦争によって、人生をないがしろにされた者と、生まれてから、ずっと自由を保持してきた者との間にある溝は、埋まらない。同じ姿、形をした人間でも、その中身は、まるで別物のように存在している気がする。それを「心の違い」と言葉で片付けることは、簡単かもしれない。どの時代に生まれてきたか、どの身分に属していたのか、どんな社会環境だったのか、まるで異なる空気を吸っているヒトを、同じ生き物だとするならば、それは横暴ではないだろうか。”平等”という概念がうまれてから、もういくぶん、時は経つ。
 資本主義が、行き詰まり始めたのは、別に、今に始まったことではない。商品を、いかにコストを抑えて、できるだけ多く生産できるか、それに踊らされて、とくに吟味することなく、手当たり次第消費する客、そして、余ったものを大量に廃棄する社会は、もう無理がある。豊かになることは、本質的に、先に期待できない制度を、維持することではない。少しづつ変わり始めた先に待つのは、どんな社会か。それを見定める作業が、必要だと思う。