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思考

対話が、起きるとき

 誰もが、自分を、正しいと、信じて疑わない。それじゃあ、まるで「正義」と「正義」の闘いじゃないか。いつまでたっても、向かっている方向が、ひとつに、定まらない。
 飽きもせず、だれかの不祥事を、騒ぎ立てる。不倫、失言、セクハラ、お金の問題を取り上げて、本当に、支援が必要なひとの声を、届けようとしない、マス・メディア。テレビの中で起きることが、全てじゃないのは、分かる。でも、あまりにも、くだらなさが際立って、チャンネルをかえるスピードに、拍車をかける。世間って、こういうものが見たいのかという、懐疑心が、募るばかりだ。

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・収奪
 都会の、効率性を重視した生活の中で、生まれる不幸を、どうにかしようとする。けれど、書類がないから、ハンコがないから、営業時間外だから、ひとを、助けることができない。現実は、そんななんだろう。みんなが、恵まれた環境にいるわけでは、ない。貧困の最中で、次々と、選択肢を、奪われている人たちがいる。人生には、自分では、どうしようもない問題が、でてくるのだと、誰かが、語る。

・頼ってもいい
 個人主義に、傾きつつある世の中で、低下していく地域力。どうすれば、孤立する人を、減らせるのか。結局は、人と人の繋がりの中で、その縁の中で、生きている人間は、生きるということの、難解さを避けて、通れない。支援を受けることは、正当なことだと、どうどうと、伝えなければならない。互いに助け合うのが、当たり前なのだと、どうどうと、伝えなければならない。当然のように。

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 便利さを追求するあまりに、見失っているものがある。他人のことなんか、考えている暇はない、自分のことで、精一杯だというのは、嘘じゃないんだろう。そういった考えが、生まれるのは、自然だ。でも、だとしても、困っている人がいたら、助けようと、各人が、努力していくことが、必要なんじゃないか。互いに、平等で、水平の関係があって、それぞれに役割があって、それが、互いを、気にしながら、ひとつの音楽を、奏でていくように、対話が起こり、何かが、解決されていく。少なくとも、そんな世界が、僕は、好きだ。

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思考

非意味性

 私は、非正規労働者だ。あるいは、同性愛者だ。いろいろなアイデンティティが、僕を、浸食していく。何層にも重なって、存在する個人の属性を、一つずつはがしていった、その先に残る自分は、はたして、何者なんだろう。もう、本当の自分を探すのは、やめにしないかと、誰かが、語りかけてくる。でも、そうしないと、安心して、夜を過ごせないんだと、僕は、答えるだろう。

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・悲劇を乗り越える
 言葉や暴力や妄想が、ときに、暴発する。猛毒となって、関係のない民衆に、ふりかかったとして、それを、何事もなく、受け入れることは、可能だろうか。争いが、争いをうみ、多くの血痕を、残してきた歴史を、振り返れば、答えは、自然に、湧き出てくる。ときに、それこそ、理性と思想と行動のレベルで、僕らの社会は、僕らの個々人の生は、堂々と、ねじ伏せて、なんとしても、越えていかなければならない。不条理という、終わりなき、悲劇を。

・問題提起
 市場が、拡大し、労働者になる人たちが多いと、競争のもとで、労賃を、安く抑えることができる。雇う側にとっては、好ましい状況だろう。そして、誰もが知っているグローバリゼーションのもとで、富は、集中していく。仕事ができる人間が、得をすること全てを、否定したいわけじゃない。でも、はじめからハンデのある人や、障害をもって生まれてくる人も、いる。なんの落度もない人が、割を食う社会は、どうなんて思う。

・線引きの暴力
 べつに、コミュニケーションをとることも拙い重度の障害者の生にも、意味があるとか、優等生的なことを、言いたい訳じゃない。そういってしまえば、この世界には、意味のある生と、無意味な生があって、命に、乱暴な線引きをしてしまう結果となる。そんな傲慢な態度じゃなくて、もっとわかりやすい言葉で、幅広い年齢層に、伝わるような言葉を、この場では、紡ぎだしたい。そう思ってる。

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 「生きづらさ」を抱えた青年が、耐えねばならないことは、常に、のしかかってくる、命の非意味なんじゃないだろうか。誰でも、一度は考えるだろう。なぜ、自分は、生まれてきたのだろう。自分は、このままなにも、成し遂げることなく、無意味に、消えていくんじゃないかという、焦燥感。平等な、対等な、圧倒的な非意味こそ、ここで、発信しなければならないことだと、僕は、思う。

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思考

2000年と、ちょっと

 これまでの歴史のなかで、取り上げなければならないことは、きっと、人間の悪行だろう。どれをとっても、目をつむりたくなるような真実が、みごとに、軒を連ねている。人が人を殺すという、まぎれもなく、悪であると、断定できる行いを、人は、してきたのだ。戦時下という特殊な状況で、人がたくさん死んでいくことに、慣れていく人がいた。それを、「不幸のルーチン化」と、一昔の学者は、いった。

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・無知
 大人になって、初めて触れる歴史的事実が、たくさんある。学生時分に、何を、学んできたのだと、少し、落ち込んでいる。なにしろ、知らないことが、あまりにも、多すぎるのだ。それほどに、いまの社会が成り立っている理由や、経緯が、ややこしすぎるのかもしれない。現実って、いつも、そんなもんなんだろう。線と線が、複雑に絡み合って、しまいには、毛玉くらいの、得体の知れない固形物が、時の経過とともに、出来上がっていく。現代人は、それを顧みようとせず、繰り返し起きている出来事を、さも初めて起きたかのように、リアクションする。なんて、愚かなんだろう。

・許してはいけないこと
 今になって、優生思想、優勢主義について、考えようと思う。それらが意味することは、他人の損得によって、ときに、人を生まれないようにし、ときに、人に、死んでもらおうという考えや行いだと、捉えることができる。もちろん、ひとつの見方として。ナチス・ドイツの民衆の多くが、それを支持して、極めて、民主的なやり方で、ヒトラーが政権についたという事実を、我々は、深く、心に、刻むべきだろう。その裏で、多くの障がい者が、殺害されたことを、当時の人は、知っていたけれど、知らないふりをしながら、ただ、黙り込んだのか。ヒトラーを後ろ押ししたのは、経済を好転させたという功績が、大きいのだけれど、その要因が、迷惑をかける、障がい者を殺して、負担を取り除いたからだというような暴論を、僕らは、決して、許してはいけない。

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 僕が、一番言いたいのは、ただ一つだけで、あなたが、どう感じるかと、生き死には関係ないのだということだ。例えば、精神の病気であろうが、そのひとが将来、犯罪を起こしそうになることが予測されようが、あるいは、周囲に頼り切ることでしか、命の存続が、難しい場合であろうが、彼が、死ななければならない理由には、ならないのだと、僕は、言うことができる。
 西暦を数えだして、もう2000年が、過ぎたのだけれど、その間に、状況は上向いているのだろうか。野蛮なことは、減ったのかもしれない。けれど、生産しない人、できない人への脅威は、消えたのか。日本は、いささか、昔より豊かになり、福祉も拡大しつつある。一方、少子高齢化を迎え、危機感が強まっている感触をもっているのは、僕だけなのか。それを問いたい。