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社会の出来事

影のない世界

 駅のホームで、電車を待つ。人ごみの中の僕は、どこか、たどたどしく、浮いているようだ。ただ、ひとりで、あてもない人生の迷宮に、入ってしまった。死にたいと考えること自体が、生きている証なのだと、あなたが言うから、少しでも、陽のあたる場所へ向かう。
 あの日、たしかに流星をみた。夏の遠い空だった。黒に近い濃密な紺色の夜空は、まるで、すべての光あるものを、のみ込んでしまうほど、圧倒的な景色で、少したじろぐ。ここで、こうして、宇宙に片隅で、ひっそりと生きる人間が、なんだか可愛く思えた。どうか、明日も、同じ澄み切った空であることを願う。

     ★     ★     ★

・表現の自由論争
 ネットを飛び交う言葉に、これは正しいとか、間違っているとかの議論は無駄だと思う。それは、みんな分かっている。自分とは異なる立場の意見に、どう向き合うのかを探る作業が、自己を決定づける作用となる。表現の自由は、守られるべきだという、主張がある。でも、それには制限があるんじゃないという人がいる。人を傷つけたり、人格を貶めたりする発言にたいして、Noということは、間違っているのか。

・あたりまえ
 たぶん、いまは、「禁止されるべき芸術」とか「韓国」とか「フェミニズム」とか、とても敏感な時期にあると思う。あえて、そこに踏みこむことによって、うまれる論争には、大きな意味がある。(もちろん稚拙な言い争いは抜きにして)表現や、芸術は、なんらかの作者の意図や、志向がある。でも、受け取る側が、それらすべてをくみ取ることは、不可能だ。だから、観る人によって、沸き上がる感情が、違う。でも、それって、考えてみれば、普通で、あたりまえだ。

・愚かじゃない
 嫌韓や、反日みたいのものを、言葉にして、直接、他人にぶつける行為は、嫌い。どんな理由があろうと、属性を理由に、差別するのは、間違っている。たぶん、韓国に生まれれば、日本を嫌いになったり、日本に生まれれば、韓国を嫌いになったりっていう、ちっぽけなものなんだ。生まれおちた場所が、違うからといって、争うなんて、途方もなく馬鹿げている。もちろん、これまでの歴史的経緯はある。だからといって、そんな大局的な視座で、個人間の交流が、なくなるほど、僕らは、愚かではない。韓国人の友達や、恋人がいる人は、大事にすればいいし、なんならもっと好きになればいい。

    ★    ★    ★

 物事には、光と影があるとよくいう。だけど、光のあたる場所と、影の部分が、固定化されたものが、今の社会だと思う。影に覆われたところに住む人は、そこで限られた希望を手に入れようとする。でも、そんなものまやかしだということに、気付く。人間は、苦労すると、その環境に慣れてしまう。だから、現状を変えようと思う意志を、持たなくなる。
 でも、そうじゃない。社会は、変えることができる。いままでが、そうであったように。いっそのこと、影のない世界を、想像する。そこで暮す人々は、だれもが、陽にあたり、いきいきとしている。そんな理想を想い描く凡人がいてもいい。季節が巡っていく。そのなかで、錆びない感性だけが、凛として、美しい。

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詩的表現

ヘゲモニー

近代という物語が、

バッドエンドに

向かうのなら

今を生きる者にとって

それほど、奇妙な探索はない。

幾重に重なる

複雑な、秩序構造。

なにかに依存していなければ

正常を保っていられない

僕たち。

ヘゲモニーを争ってきたこれまでから

作り上げられた

無意味なシステム。

そんなものを、

手放すことさえ

億劫になる。

いくらでも

修正はきくはずなのに、

現状維持を好む彼らは

たぶん、視界がぼやけているのだ。

美しい薔薇を目の前にして、

有害な物質は

排除しなければならないと

言わんばかりに

新しい価値観を

ぶっ壊す。

ただ、この社会で

同じように

生きたいだけなのに。

傾きかけた世界は、

今日も、

崩れかけた誰かを

支えるように

息をしている。

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詩的表現

タンジブルな夢

汗をかいて

守ろうとしている

平穏な日常。

たぶん、それは、いつか、くたばる日に

その価値が、

ありありと

浮かび上がってくる。

「尊厳」なんて、

たいそれた言葉じゃ

言い表せないけど、

それに、似た

確固たる、いつもここにいる

自分という、疎ましい存在。

ざらざらした現実と、対峙するときのみ

有効となる<私>は、

はやく消えてしまいたいと

いつも願う。

タンジブルな夢を

つかもうと、

翻弄する日々には、

嫌気がさす。

いっそのこと、世界が滅びてしまえばいいのに。

触れることのできる、君。

触感のない、空気と未来。

こぼれ落ちる砂粒みたいに、

そそくさと、波のなかに消えていく。

言葉に、正解なんて、たぶん、ない。

それでも、何かを発信しようと

志した、静かな夜。

あの日と同じように、

しめった夜風が、頬を通りすぎる。

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思考

死神になりたい

 蝉の鳴き声が、じんじんと耳にさわる。今年もあいかわらす、夏が巡ってきたことを知る。どうして、人は、まわる季節のなかで、同じような過ちを、繰り返すんだろう。傷つけるつもりはないんだけど、本心を語ることは、たぶん、誰かを悲しませることになるんだと思う。波風をたてることを、ひどく嫌う僕らは、それでも、本当のことだけを探していこうと決めた。この、おいしげる緑と、ふりかかる日差しのなかで。

    ★    ★    ★

・戦争について
 センシティブな部分に切り込むには、勇気がいる。そこに潜り込むほど、無知であることを知らざるえない。けれど、戦争について、考えることは必要だし、生まれ落ちた国の成り立ちや歴史から、学ぶべきことは、たくさんある。たぶん、原爆が、ヒロシマとナガサキに落とされたことは、だれもが知っている。それから74年経ったいまでも、その日、一瞬のうちに、なんの落度もない人間が、犠牲になった事実を顧みることを、意味がないとあなたが言うならば、たぶんそれは間違っている。

・まともであれ
 アメリカの下した決断が、良かったとか、間違っていたとかを議論するつもりはない。(というか、僕には分からない。)たぶん、いろんな歴史観があり、思想があり、考え方がある。戦争で散っていった勇敢な命をたたえ、愛国心をもつ人だっているし、戦争犯罪について反省すべきと言う人もいる。政治的立場が、右に偏ったり、左の思想に影響される人もいる。混迷する社会のなかで、幸せに生きることが困難な時代に、僕らははたしてどんな未来に、辿り着きたいのか。それを示そうとするまともな大人は、意外なほど少ない。

・アメリカが、好きか、嫌いか
 令和を生きる若者にとって、今更、アメリカを憎むべきだという言論はリアリティーがない。それよりも、震災のときに「トモダチ作戦」を展開した姿の方が、印象に残っている。西洋の文化を取り入れた日本で教育をうけた僕は、自由と平等と民主主義を愛するアメリカを嫌う理由がみつからない。

・自由を求めて
 資本主義のなかで、すべてがうまくいってはいないが、ある程度みんな幸せに暮らしているじゃないかという事実は、たぶん拭いきれない。今もそうだけど、ただ国家とか、政治とかを差し置いて、自由になりたかった。できるだけ個人の価値を高めてきた。その結果、共同体や家族が解体していく。不安定な経済情勢を前に、ただ貧困に嘆くことしかできない僕らは、滑稽にみえる。それが「時代」というものだと、切り捨てるならば、団結して、意義を唱え、大きな体制側に、声を上げるべきだろう。

   ★    ★    ★

 死神が降臨するとき、たぶん、それは冬の時期だ。日が差しかかり、薄くもやのかかった朝焼けの寒い一日の始まりに、彼は登場する。魂の管理を取り仕切る仕事は、この世のどんな職業よりも、たぐいまれな才能を要する。紛争が起きて、たくさんの人が死んだ日は、忙しいのだ。大勢を黄泉の国へ、移送するから。そんな妄想にふける、8月の午後。まだ、暑い日は、続くだろう。死神が、運んでいった精霊たちが、深い眠りのなかにいることを願って。

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映画レビュー

008 「オマールの壁」(2016)

<基本情報>
第66回カンヌ映画祭ある視点部門審査員を、受賞する。
そして、第86回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、注目を集めた。
パレスチナ人であるハニ・アブ・アサド監督が、不安定な情勢下で生きる若者の姿を、力強く描く。

 主人公のオマールは、パン職人である。きっと、パン屋さんを営む人は、世界中にいる。毎朝、下ごしらえをして、生地を練り込んで、オーブンでパンを焼き上げる。それは、ありふれた光景かもしれない。でも、彼が背負っているものは、少し大きすぎたのだ。

 パレスチナ問題といえば、誰でも一度は聞いたことのある言葉だと思う。たまにニュースで、社会情勢について、報道される。その多くが、紛争により民間人が犠牲になったものだったりする。緊張下にある、その土地で、いったいどんな映画が製作されたのか。それが、気になり、僕はこの映画を観ようと思った。ちなみに、撮影もすべて、パレスチナで行われている。

 世界に目を向けるきっかけが、映画であってもいいと思う。日本に住んでいれば、占領されたり、銃声が聞こえたりする心配はないだろう。きなくさい空気に汚染されることもない。それでもなお、僕らは世界のことを知るべきなんだろう。学校で習う世界史には、何の興味もなかった僕が、こうしてブログでこんな発信をするようになるなんて、人間は変わるものだ。

 そして、それと同じように物語のなかの、それぞれの人物も、変わっていく。いくら紛争地帯で暮らすことを余儀なくされたとしても、彼らは生活していかなければならない。そこには友情だってある。恋愛もするだろう。それぞれが抱える葛藤を胸に、そこに生まれ落ちた定めをまっとうするかのように、懸命に生きる彼らは、なんといっていいか分からないけど、美しい。

 題名にもあるように、居住区を分離する壁が、登場する。それはまぎれもなく人間が作りあげたものだ。同時に、壁に翻弄されるのも、人間なのだ。皮肉なことに。この作品は、静かな熱を帯びている。僕は、そう思う。ラストのシーンで、オマールが下す決断に、息を呑む。劣悪な環境のなかで生きることが、いったいどこに繋がっていくのかは分からない。でも、希望を見出さずにはいられない。それが、人間という生き物なのだ。

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favorite song

バウンダリー

ここにいて、いいんだよ。

なにも、咎めないし、強制もしない。

ただ、呼吸をするだけでいい。

今のあなたは、涙を流すことさえ、たじろんでいる。

個性的である必要なんかない。

「すべてが狂っている」と、だれかが呟いた。

そうかもしれない。

現実とよばれる世界は、

どうにも生きにくい。

信じるべきに値する事象なんて、存在しない。

でも、心を突き動かされる曲がある。

このバンドは、もう解散している。

10年くらい前に、よく聴いてました。

でも、いまでも古い感じがしない。

ふくろうずの「ごめんね」。

なにもできない自分が、嫌いだ。

でも弱くあることが、許されない社会なんか、きえてなくなればいい。

無限にひろがる精神世界に、バウンダリー(境界)があるならば、

それはきっと、すでに廃れているにちがいない。

僕を分断するすべてのものに抗う。

正しい必要なんてない。

何度でも立ち上がればいい。

それが果てしなく小さな決意のもとに

なされた行為なら、いつか光かがやく灯火となる。

だから、生きて、生きて、生き抜いて欲しい。

このおかしいほど静まりかえった現世を。

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映画レビュー

007 「オーバー・フェンス」(2016)

<基本情報>
佐藤泰志の芥川賞候補作を、確かな演技力を誇る実力派俳優を迎えて映画化。
監督は「苦役列車」の山下敦弘が務めた。
函館の職業訓練校に通う彼らを中心に、それぞれが孤独を抱えた人生に向き合う姿が、独特なタッチで描かれている。

 社会は、何食わぬ顔をして、優秀な人材を求め、そうじゃない人を追い込んでいく。能力の高い人が、それに応じた収入を得ることに、文句をいいたいわけではない。ただ、もう少し、生きることにぶきっちょうな人(例えば、僕のような)が、日の目をみることのできるような世界であってほしい。

 満島真之介が演じる森由人が、印象に残っている。彼は、いわゆる不器用で、それが原因で仲間からも疎ましく思われている。何をやっても上手にできない、感情をうまく表現できない、一人でもんもんと考え込んでしまう、これらの特徴をもったキャラクターが見事に再現されている。彼が想いを爆発させるシーンは、痛々しさをも、帯びている。でも、それでも、たとえ、たどたどしく話すことしかできないとしても、生活していかなければならないし、お金だって稼がないといけないし、なんだったら幸せにならないといけない。

 動物園で暮らす動物たちは、たぶん目の前のフェンスを越えることなく死んでいく。いわば、そこで生きていくしか選択肢がないのだ。でも、人間はちがう。たとえ、四方が壁に囲まれても、それを越えていく力が宿っているはずだ。生まれ持った個性を、発揮できる場所へと向かうことができる。自分の意思で。

 人生は、大半がうまくいかない。それは、長く生きるほど分かってくる。それでも僕らは、思いどおりに生きていくべきだ。やりがいのある仕事に就くことなんて必要ない。理想の人に巡り会い、愛のある生活が続く必要なんてない。希望のない日常でも、生きていく価値がある。なにかしらの救いがある。幸せは、誰かが独占できるものではない。そう、教えてくれる作品だ。

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favorite song

シニカル

いま僕がいるこの場所は、

暗くて、湿っぽくて、ほこりっぽい。

でも、なぜか離れることができない。

せめて、気が紛れる曲をかけよう。

それが、こんな歌だったらいいのに。

mol-74(モルカルマイナスナナジュウヨン)の「 ▷ (Saisei)」。

ため息がもれる。

シニカルな笑いが起きる。

それが、相手を不快にさせてはいないかと、勘ぐる。

そんな、やりとりはもう、うんざりだ。

僕は、僕の思ったように表現するし、

なににも縛られない。

ただ、自由になりたい。

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自分のこと

荒波を越える

 たくさんの人でごった返す町並みを、くぐりぬける。風は、いつもと変わらない。いま僕が生きている社会というものは、なんら間違っていないような体をよそおう。だれしもが、いるべきところにおさまり、行き着く場所へと向かっていく。それは、まるで、意志をもたないロボットの行進だ。でも、本当はひとりひとりが、心をもち、意識をもち、考えを持っている。
 そもそも、社会問題と呼ばれる解決しなければならない懸案は、いつから生まれたのか。人間が、なんとかしなければという危機を感じているからこそ、問題になる。そうだとするならば、課題として認識されない問題は、その存在さえもなきものにされる。苦しんでいる人、一人じゃ、どうしようもなく悩んでいる人、すでにあきらめて戦うことをやめてしまった人、そんな人が、この社会の片隅にたくさんいることは、隠しようがない。

     ★    ★    ★

・まとまりのあるもの
 この国は、ある一定のまとまりをもっている。もちろん、思想の違いだってある。格差だってある。それぞれの主義、主張は当然ある。だからといって、争いをするわけではない。みんなが納得する答えなんて、たぶんない。へんにナショナリズムを煽るのには、違和感を感じる。でも、なんだかんだいって、僕らは、おなじ国に住む民衆として、ひとつになっている。
 でも、もっとマクロな視点で言えば、人間は複数の群れに分かれ続けている。もっと時間が経てば、ひとつの集合体になるのかは、分からないけど、とりあえず、離れたり、くっついたりを繰り返す。そりゃ、簡単にはひとつにはならない。

・僕の話
 ここで、僕のことについて、話を戻す。つまり僕がここで言いたいことは、人間社会は、絶えず差別化をするのが基本だよということ。同性愛者であることを理由に、嫌な思いをした人は、多くいるかもしれない。それが怖くて、うまく自分を語れない人だってたくさんいる。だからといって、当事者の痛みに寄り添えとか、それだけの問題じゃないようにしたい。もちろん、それも大事なんだけど。差別される側は、かわいそうな人になるんじゃなくて、案外、ゲイだとしても楽しくやってますよ、あなたの生きるこの同じ、社会でって言いたい。

・あなたは、分かっている
 社会問題が実在するときに、当事者がどう考えているのかを、語らなければならない。次に、それを聞いた人がどうするか。たぶん単純なコミュニケーションだ。でも、それが大事なんだと思う。差別をなくして、だれもが自分らしく生きていけるようにするには。
 だからといって、今、自分のセクシュアリティーについて、悩んでいる人に、簡単にもう大丈夫だなんていえない。たぶんこの先で、傷つくことが容易に想像がつくからだ。それは、あなただって分かっている。この社会は、僕らが思っているよりも意地悪で、自分とは相容れないものを排除することだってある。

     ★    ★    ★

 僕たちは、自分とは何者なのかを、否応にして考えなければならない。自分が常に優位にたち、我の存在に疑問をもたない人間は、そんなこと考えない。それは、それで幸せな人生だろう。でも、あなたは違う。弱者の立場にたち、いかにして、共存できるかを思考し、多様性を尊重できるかを考えられる人間のはずだ。それは、案外、大きな強みになる。どうか、あなたにふりかかる荒波が、自分を壊してしまわないよう、祈りをこめて。

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思考

レストルーム

 宙に舞う綿ぼこりが、まるで、意志を持ったかのように、風に揺られている。それの行き着くさきは、たぶん、この地球上のどこでもない別次元だ。そして、最期には、役目を果たしたかのように散っていく。僕も、そんな風に、生きてみたいと願うのは、ややロマンチシズムに偏りすぎだろうか。

     ★     ★     ★  

・労働者として
 本当は、もっと夜更かししたいけど、明日も仕事だから、早く床につく。自分の時間を自由にすることさえ、ままならない現状は、変わりそうもない。ずっと、僕らを縛り付ける労働が、暮らしのなか存在することが前提とされる。どうして、働くことに多くの時間を費やしてきたのかを、年を取って気付くにちがいない。それよりも、するべきこと、学ぶべきこと、育むべきことが、あったはずなのに。その日暮らしの金を稼ぐことで精一杯の労働者は、息つく暇もなく、死んでいけというのだろうか。

・トリガーが呼びだされるとき
 突然のようにトリガーが呼び出され、それに端を発して、言葉をやめない人間が語る真実は、静かに誰かの胸の奥に仕舞われる。みずから語ることによって、トラウマのような出来事が表面化する。そんな瞬間が、好きだ。だから、他人の語りを、蔑ろにするな。どんなにどん底にいても、その環境のなかで居場所を見つける機能が、幸か不幸か、僕らには備わっている。苦境にたつ者はみな、自分の努力が足りないからだと、言いくるめられる。でも、本当に、この社会を支えているのは、まぎれもなく日々、汗を流して働く労働者であることは、明白だ。

・弱くある
 生産性を突き詰め、利益を最大化することに躍起になる僕らは、すこし疲れている。資本主義の世の中なんだから、仕方ないじゃないと、あなたは言う。行き過ぎた市場主義は、なにもできない者を、まるで悪として扱う。でも、その主張にたいして、いくらでも反論の余地はある。何もできないことを、声高にして訴えればいいし、それでも幸せになるんだという意志を示せばいい。弱いものは駆除されていき、賢いものだけが生き残るのが、この世の常というのならば、それはもう、野蛮な生き物でしかない。

     ★     ★     ★

 子どもをつくらない同性愛者だって、働くことのできない障がい者だって、生き抜いていかなければならないのだ。この荒れ狂う大地の上を、あるいは、この近代という時代を。でも、その道のりに、休息の場を設けられるはずだ。政治が役割を果たせばいいし、隣人の手助けを借りたっていいし、行政のサービスを受ければいい。どうか、死ぬなんて思わないで欲しい。シンプルで、あたり前のメッセージを発信するのは、退屈かもしれないけど、重要だ。世界が少しでもよくなるようにと願わずにいられない誰かの善意が、見ず知らずの人を救う。そんなことが、あってもいいと思う。