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社会の出来事

影のない世界

 駅のホームで、電車を待つ。人ごみの中の僕は、どこか、たどたどしく、浮いているようだ。ただ、ひとりで、あてもない人生の迷宮に、入ってしまった。死にたいと考えること自体が、生きている証なのだと、あなたが言うから、少しでも、陽のあたる場所へ向かう。
 あの日、たしかに流星をみた。夏の遠い空だった。黒に近い濃密な紺色の夜空は、まるで、すべての光あるものを、のみ込んでしまうほど、圧倒的な景色で、少したじろぐ。ここで、こうして、宇宙に片隅で、ひっそりと生きる人間が、なんだか可愛く思えた。どうか、明日も、同じ澄み切った空であることを願う。

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・表現の自由論争
 ネットを飛び交う言葉に、これは正しいとか、間違っているとかの議論は無駄だと思う。それは、みんな分かっている。自分とは異なる立場の意見に、どう向き合うのかを探る作業が、自己を決定づける作用となる。表現の自由は、守られるべきだという、主張がある。でも、それには制限があるんじゃないという人がいる。人を傷つけたり、人格を貶めたりする発言にたいして、Noということは、間違っているのか。

・あたりまえ
 たぶん、いまは、「禁止されるべき芸術」とか「韓国」とか「フェミニズム」とか、とても敏感な時期にあると思う。あえて、そこに踏みこむことによって、うまれる論争には、大きな意味がある。(もちろん稚拙な言い争いは抜きにして)表現や、芸術は、なんらかの作者の意図や、志向がある。でも、受け取る側が、それらすべてをくみ取ることは、不可能だ。だから、観る人によって、沸き上がる感情が、違う。でも、それって、考えてみれば、普通で、あたりまえだ。

・愚かじゃない
 嫌韓や、反日みたいのものを、言葉にして、直接、他人にぶつける行為は、嫌い。どんな理由があろうと、属性を理由に、差別するのは、間違っている。たぶん、韓国に生まれれば、日本を嫌いになったり、日本に生まれれば、韓国を嫌いになったりっていう、ちっぽけなものなんだ。生まれおちた場所が、違うからといって、争うなんて、途方もなく馬鹿げている。もちろん、これまでの歴史的経緯はある。だからといって、そんな大局的な視座で、個人間の交流が、なくなるほど、僕らは、愚かではない。韓国人の友達や、恋人がいる人は、大事にすればいいし、なんならもっと好きになればいい。

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 物事には、光と影があるとよくいう。だけど、光のあたる場所と、影の部分が、固定化されたものが、今の社会だと思う。影に覆われたところに住む人は、そこで限られた希望を手に入れようとする。でも、そんなものまやかしだということに、気付く。人間は、苦労すると、その環境に慣れてしまう。だから、現状を変えようと思う意志を、持たなくなる。
 でも、そうじゃない。社会は、変えることができる。いままでが、そうであったように。いっそのこと、影のない世界を、想像する。そこで暮す人々は、だれもが、陽にあたり、いきいきとしている。そんな理想を想い描く凡人がいてもいい。季節が巡っていく。そのなかで、錆びない感性だけが、凛として、美しい。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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