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自分のこと

渡り鳥のように

 テレビは、相変わらず、世の中の動きを、鮮明に、映し出している。それを、リビングで眺めながら、黙り込む。たれ流しになっている情報が、どれだけの人の脳に、刷り込まれて、そこから派生した感情は、どこに向かうのだろう。

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・奇妙なこと
 せっかく、過去の記事で、自分のセクシャリティーについて語ったのだから、それについて、何か書こうと思っても、特に、思いつかない。それは、ゲイというアイデンティティーが、僕の、ほんの一部分にすぎないのだということが、分かる。問題は、そうだとしても、なにかしら、書けと迫られる、あるいは、説明することを余儀なくさせる、空気感に、あるのかもしれない。
 そもそも僕は、カミングアウトという言葉が、好きになれない。たいそれた名前をしているけれども、個人的には、そんなことをしなければ、自分について、語れない社会のほうに、問題があるんじゃないかと思っている。だって、わざわざ、あらためて、性的指向について、他人に、語らなければならないって奇妙だし、それが、どれだけ、当事者に、プレッシャーをかけていることを、想像できない世の中なんて、どれだけ、せちがらいんだろうか。

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 人の心と心が、時間の経過に沿って、くっついたり、離れたりするものだというくらいのことは、もちろん、わかる。人の心の動きというのは、習慣や常識や法律では規制できない、どこまでも、流動的なものなのだ。たしかに、人生の一部分を交えた相手が、他のだれかと、付き合うことになることなんて、多々ある。ハッピーエンドの映画の結末のようにならない人生に、辟易したとしても、国境という概念を持たない渡り鳥のように、自由になれる日を、待ちわびながら、眠りにつく。

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思考

永眠を、想像する

 一日の終わりに目にするニュースが、日に日に、意味のないものに、なりつつある。なぜだろう。なにを聞いても、心に響かないというか、なぜ、それを、多くの人に伝えようと思ったのかを、伺いしることができない。そもそも、世界中で起きる出来事の中で、報道されるべき意味をもつものなんて、10年に、一度あったらいいほうにちがいない。それでも、習慣として、テレビから流れる情報に、耳を傾けることが、生活の一部になっている。いくら、関心がないからといって、たとえば、地球が今まさに、破滅の淵にあるというのに、僕だけが、それを知らないでいるとなれば、それは、やはり少し、困ったことになるかもしれない。

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・可能性を、抱く
 僕が思うには、いささか、本当のことを知ることに、価値をおきすぎている。だから、あれやこれや、誰が悪いだの、責任は、どこのどいつにあるんだとかを、追求したがる。彼らは、真実が、だれにとっても、幸せを運ぶと、勘違いしている。真実は、むしろ、混乱をもたらし、どれほど、深い孤独を、人にもたらすのかを、考慮しない。ひとつの可能性を、心に抱いたまま、これからの人生を生きていこうと考える人は、世の中で繰り広げられるスキャンダルに、一喜一憂している彼らを、滑稽にみているのだ。

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 想像の力は、限りなく無限だ。いずれ、誰しもに訪れる、永眠へのプロセスについても、推し量ることができる。亡くなった人の声は、僕らには、届かない。だから、死について語ることは、どれも想像にすぎない。あるいは、妄想だと言ってもよい。
 もちろん、今すぐに、死にたいわけじゃない。ただ、頭の中で、思い浮かべるだけだ。死というものを、仮説として、もてあそんでいるんだ。明日も生きることが前提となっている、まだ、希望や可能性に満ちているといえる僕らが、できることなんて、たかがしれている。でも、だからこそ、想像する力が、今まで以上に、求められている現状が、目の前に、横たわっている。

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自分のこと

無題

 今年で、30歳になる。その前に、片付けておかなければならない問題が、ある。かつて、僕のきれいな手が、好きだと言ってくれた彼は、隣には、もういない。

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・カテゴライズ、あるいは無意味
 中学生の頃、周りの男子は、女の子の裸に、興味が湧いてきだした頃で、楽しそうに、性について、語っていた。その話を、まるで、違う惑星の話のように、横で聞き流し、自分には、性的な興味は、一生湧いてこないんだとさえ、思っていた。僕が、ゲイ・セクシャリティという属性を有することに、気付くのは、後のことだった。
 以前、僕の心を震わせ、距離を近づけたいと思う、女性がいた。彼女と、付き合うことになったんだけど、一緒に、映画を観たり、話したりするのが楽しい時期で、それ以上、進展することはなかった。そういうのを、バイセクシャルというのかもしれない。けれど、そうやって、人をカテゴリーに分けようとする作業は、何の意味も持たないと、知ったことは、ひとつの救いだ。どこまでいっても、とんでもなく不器用な自分という存在が、ここにいるだけなのだ。

・もやもやしたもの
 こうしてブログで、自分のセクシャリティについて、語ろうと思ったのは、とあるゲイ男性のブログをみて、影響されたんだけど、それ以上に、もうちょっと、心の中にある、もやもやとした部分と、深く向き合うことが必要なのではと、感じたことが大きい。インターネットという開かれた場に、文章を綴るという手段を使って。顔を出そうと思ったのも、少なからず、リスクを負うことによって、生半可な気持ちではないと知ってもらうためだ。でも中には、そんな、他人の性的指向の話なんて、聞きたくないよと、いうかもしれない。

・もう一度言う
 だけど、もう一度言う。僕は、ゲイだ。(あるいはバイセクシャルだ。)もう思春期を迎えた頃の、うぶな子どもではない。だから、想像できる。性は、体やベッドの上の話だけではない。人生、そのものだ。それをいったところで、性的少数者について、理解してほしいなんていう、崇高な思いは、持ち合わせていない。顔を出して、性について語ること(それをカミングアウトと呼びたきゃそう呼べば良い)で、何かが変わるなら、世界は、もっと、はやくに良くなっているはずだ。
 ただ、みんなが当たり前にしているように、自分を語らずにはいられない衝動を、解き放ちたい。彼氏のことを、彼女に置き換えながら、嘘を交えて会話するのを、やめて、実直に、語りたい。異性愛が中心となって構成されている社会において、少なからず、誰にも相談できず、抑圧されている人間がいることを、知って欲しい。そして、声に出せず身動きをとれなくなっているのはなにも、ゲイや、レズビアンだけではないという事実に、思いあたらずにはいられない。

・多面的
 けど今はあえて、セクシャル・マイノリティについて言及したい。ニュースで取り上げられる難民の中に、ゲイがいる。耳が聞こえない聾唖者の中に、レズビアンがいる。不況の波に襲われ、路上で暮らしている野宿者の中に、トランス・ジェンダーがいる。それは、虚構でもなく、ただの突きつけられた現実であることは、少し頭を働かせれば、分かることだ。
 僕が、知って欲しいのは、この世界は、もちろん、幅があって、奥行きがあって、かつ、複雑な拡がりを見せている。そして、それは、案外すぐとなりに、欠片となって散りばめられている。そこで暮らす人々は、平面的なわけがなく、多面的に、形成された人格を持ち合わせている。理解し合うことが困難と分かっていても、気持ちを共有したり、慰め合ったりして、分かり合う方法を模索するのが、人間の姿なんじゃないだろうか。

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 これからさき、このブログに、どんなことを書こうか、まだ決めてないんだけど、よろしければ、お付き合いください。よろしくお願いします。

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多数派としての、強者

 適応は、ときに、歪みを生む。希望を持てないほど、虐げられた民衆は、急激な変化を求める勇気を欠き、願望や期待を、実現可能なわずかばかりのものに、合わせてしまう傾向がある。いわば、苦境を、甘んじて、受け入れることによって、耐えるのだ。

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・理由の在り処
 例えば、不寛容なコミュニティにおいて、抑圧された少数者や、非常に、男女差別主義的な文化の下で、服従を強いられる主婦という存在に、気付かないようにみせ、無視し続けることを、不正義と呼ぼう。その悪が、のさぼっていることに、不満を感じる。
 僕らには、互いに意志を伝え合いたい、自分たちの生きている世界のことを、もっと、理解したいと思うのに、十分な理由がある。搾取的な産業において、悪条件で、働かされる労働者が、実は「真の仕事」を行っているのだとしたら、受け取る報酬を、公正なものにしたいと思うのは、それほど、特殊なのだろうか。

・砂の上の線
 必ずといっていいほど、国家の指導者は、群衆の悲惨な状態から、切り離された暮らしをしている。飢餓などの、国家の惨事においても、その犠牲者の苦しみを、共有することなく、生きていくことができる。かつては、無視され、不利な立場におかれた人々に、声を与えるという手段を、どうやって見つけていくのか。
 世界が大きく変化し、急激な社会思想の変化を、反映するように、僕らが、手にする権利は、拡大しつつある。公平で、好ましい報酬を受ける権利さえ、含まれている。人権の主張が、全面的に、受け入れられるようになるとき、世界は、正義の方向へと、舵を切る。それは、砂の上に、線を描くのと同様に、維持しがたいのかもしれないけど。

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 世界で起きる、多くのテロ事件の後、テロリストによる暴力に対する恐怖は、誇張されてきたかもしれない。たしかに、恐怖から解放される権利は、確保されるべきだろう。権利の主張は、利害の対立を生む。そのとき、優先されるのは、多数派のほうだということは、全く、珍しいことではない。権利は、誰のためのものなのかを、もう一度、議論してほしい。いつも我慢するのは、苦しい境遇に直面している人であるなら、それは正しいのかを、よく考えよう。

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それでも、僕らは幸せになりたい

 今の社会が、より良いものになっているかを、表そうとするときに、そこに住む人々が、幸福であるかという視点は、切り離すことができない。幸福を、評価の中心に置き、状況の良さを、判断するやり方は、長い歴史を持っている。では、実際、我々が、幸せであるということは、どのような状態であることをいうのか。

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・幸福と所得
 よく語られるのは、貧困か、そうでないかという見方だ。所得が多くて、不自由な暮らしでなければ、幸せで、所得がなく、食べるものに、困るのであれば、不幸であるとみなされる。たしかに、幸福と所得は、切り離されない関係で、一定の説得力を、もつ。けれど、例えば、障害をもつ高所得者と、低所得の五体満足な健常者を、比較するとき、どちらが自由を享受し、幸せに暮らしているかを考えるのは、難しくなる。

・何も、分からない
 貧困を、所得によって捉えることは、貧困の本当の厳しさから、注意を背けさせることになっている。知的で人間的な干渉によって、達成できることを考えると、ほとんどの社会が、障害という共有されない重荷に対して、いかに消極的で、独善的であるかは驚きだ。僕らは、僕らの住む世界のことを、何も分かっちゃいない。

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 即座に感じることは、本当に、正しいのかどうか。当たり前に蔓延る習慣を、疑うことは、案外、大事なのかもしれない。確信や、精神的反応の信頼性について、自分自身で、熟慮することは、精査されない感情について、理性的に、考え直す必要性を、主張することにつながる。幸福は、それ自身は、確かに重要だけど、僕らが、価値を認める、唯一のものでもない。幸福を、追求することだけが、人生の目的だという語り口には、少し、うんざりする。生きるということは、もっと、複雑なのだ。

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隠し持っているもの

 ある問題について、何かを考え、行動するとき、その人の、社会的な関係を、理解せずに、なぜ、それを、行うのかを、理解するのは、難しい。その人物の背景にせまるとしても、なぜか一つの限定的な側面からのみ、情報をつかみ取ってしまう。
 例えば、職場環境の改善を訴えるために、労働者が、声をあげるとき、労働者は、労働者としてのみ捉えられ、彼らの中に、それ以上のものを、見ようとはせず、他のすべてが無視される。それは、はたして、本当に正しいのか。

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・難解
 一口に、労働者といっても、例えば、ジェンダー、階級、言語、国籍、人種、宗教など、たくさんのグループに、属している。それを、一つの有力なアイデンティティによって、捉えようとする傾向は、自分自身を、厳密に、どのように見るかを決める自由を、否定することになる。僕らを取り囲む人間関係は、思ったよりも難解で、なにより根本的に、お互い影響しあう生き物であることを、忘れてはいけない。

・何者なのか
 労働者は、黒人だったかもしれないし、あるいは、ゲイだったかもしれない。もっと言えば、イスラム教の信者だったかもしれないし、アラブ民族だったかもしれない。とにかく、自分が何者であるのかと、定義しようとするとき、複数のアイデンティティを、共有していることは、稀なことではないのだ。それを、自由に表現することが、自分を、不利な状況に追い込むのだとしたら、それが、近代化した国家なのかと、目を疑いたくなる。

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 僕らの中に、隠し持っているアイデンティティを、見ようとしない傾向のある、今日の知的風潮に、反対したい。なぜなら、それは、どの社会も持っている、広がりや複雑さを、理解する上で、不適切だからだ。人間は、同時に、誰かの母であり、娘だし、あるいは、父であり、息子だ。個人が、複数の所属を持っていることを、考慮できないようでは、豊かな社会とは、なり得ない。

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国境を、越えて

 その社会に生まれ、そこで生きていくことになる。この事実が、重い。どうして、経済的に豊かな国と、そうでないところに生まれた人々の格差を、何事もなく、見過ごさなくてはならないのだろう。
 もちろん、国境線は、法的な意味を持つ。けれど、僕たちのアイデンティティの感覚は、単に、国境の内側だけに、限られるわけではない。同じ宗教、人種、性別、政治的信条、職業を持つ人々を、仲間と思う。ときには、関係のない人へ、思いを馳せるときもあるのだ。

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・偏狭主義の、克服
 他人に、寛容で、親切であることは、素晴らしいことだ。でも、隣人ではない他人に対して、何の義務も負わないと、論じることは、やや、せばまった考えではないだろうか。もし、他者(近くの人であっても、遠くの人であっても)に対して、何かを負っているなら、たとえ、その義務が、非常に、曖昧なものであったとしても、慈悲深い人道主義の領域に切り離すのではなく、僕たちの正義についての思考の範囲内に、含めるべきだ。
 結局、僕がここで言いたいことは、自分が属するコミュニティだけに、優しくするのではなく、それ以外の場所にいる他者にも、同じようにするということである。僕たちの選択と行動は、遠くの人々の暮らしにも、影響を与えるのだ。それを、忘れてしまえば、自分自身の偏狭主義を、克服することはできない。

・好き嫌いで、論じる
 たとえば、経営者か労働者か、女性か男性か、保守主義者か社会主義者か、金持ちか貧しいかなど、多様なグループが存在する。今、自分が属しているグループだけが、利益を得ればいいという考えは、はっきり言って、嫌いなのだ。グループに属していない人々の声を、排除することが、まかりとおっているようでは、僕らが目指すべき社会とは言えない。

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 世界中で、何十億という人々を、苦しめている、経済危機を、どのように、克服するのかについて、議論を行っているまさにこのとき、国境を越えて、互いに、理解し合えないという主張を、受け入れることはできない。むしろ、こんな時代だからこそ、遠くの人の声に、耳を傾ける必要があるのだと思う。

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自由を、独占してはいけない

 世界中で起こった、様々な出来事に対する態度を、たった一つの傾向(保守的、急進的、その他、何であれ)によって、説明しようとするのは、馬鹿げている。思考とは、複雑に、考えが絡み合って、形成されるもので、とても繊細である。

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・悪の、根源を辿る
 例えば、アメリカ独立戦争のような、一部の人々の自由を、擁護するような主張は、不適切であると論じたい。なぜ、彼らの独立だけがまかりとおり、ほかの人々の苦境を、放置するのだろうと。奴隷でない人の自由を、擁護しながら、奴隷の権利については、沈黙していたという事実に対して、批判をしたいのだ。
 僕は、女性の、永続的で、グロテスクな服従という悪を、取り除き、そのように、社会を、変化させていくべきだと、思う。まっとうな政治家が、女子教育の重要性を、主張するのは、家庭や社会生活だけでなく、公共的な事柄においても、女性の声を必要とすると、認識していたからである。今日、世界の貧困を終わらせるのに、女子教育が、劇的な効果をもたらすという証拠が、いくつも蓄積されている。

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 一部の人の自由だけが、重要であり、その他の人々を、排除する形で、人間の自由を、擁護するような議論は、支持できない。そして、特定の人々だけに注目し、他の人々に、目を向けようとしないのは、正義を語る上で、あってはならないのだ。
 全ての人の平和を確立することは、制度的にいって、かなり、困難である。けれど、僕たちの根底にある理念は、そのへんが重要だし、決して、一つのグループだけが、自由を独占するという状況は、避けるべきなのだ。

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救いを、求めて

 ある世界征服者が、哲学者に、一つ問うた。「なぜ、あなたたちは、私に、注目せず、無視するのか」と。この問いに対して、学者は、民主的な答えを、返した。
 「王よ。すべての人間は、この地球の表面で、立っているのと、同じくらいの広さを、所有することができる。あなたも同じ、人間です。すぐに、死ぬでしょう。そのとき、あなたは、自分が、埋葬されるのに、十分な土地だけ、所有することになるでしょう。」
 この厳しい平等的非難に対して、大きな賞賛が与えられた。どのように、公平な世界を、作っていくのかという問題に、大きな指針を、示してくれている点において、敬意を表しつつ、議論を深めていきたい。

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・行き過ぎた、自由
 驚くべきことではないが、個人の自由の重要性を、理性的に認識したから、僕たちは、何世紀にもわたって、自由を擁護し、自由のために、戦ってきたのである。けれど今、自由に対して、完全な優先権を与えるのは、極端すぎると、論じるべきだろう。
 なぜ、飢餓や医療を、受けられないことの方が、個人の、あらゆる種類の自由の侵害よりも、重要でないと、見なさなければならないのだろうか。人の豊かさを、どのように、定義するのかという発問にたいして、そのような議論が、たびたびなされてきた。その答えが出る気配は、一向に、ない。

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 正義をいかに、構築していくかの答えとして、ここで、偉大な研究者のアイデアを、記すのは、乱暴だろう。要約するという行為は、どのようなものであっても、究極的には、野蛮なものである。それでも、基礎的な特徴に焦点を与えて、伝承される必要がある。人間の英知を集結した書物が、今の僕の、救いになっている気がする。

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無垢な僕に、さようなら

 最近、よく夢を見る。妙に、現実的なものから、少し、官能的なシーンの含まれたものまでだ。でも、それは、ただの夢ではなかった。たまたま、夢というかたちをとっている、何かなのだ。
 僕たちが、こうして目にしている光景というのは、世界のほんの一部にすぎない。習慣的に、これが、世界だと思っているわけだけど、本当は、そうじゃない。本当の世界は、もっと暗くて、深いところにある。それを、忘れてしまっているだけなのだ。

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・海面という皮膚
 地球の表面の、三分の二は海だし、肉眼で、見ることのできるのは、海面という、ただの皮膚にすぎない。その皮膚の下に、本当に、どんなものがあるのか、ほとんど、何も知らない。まだ、世界は、未知なのだ。
 一方で、現実には、毎日、様々なことが起きる。そのほとんどを、たまたま、メディアにのって伝わる情報として、受け取る。知った出来事について、ベッドに、寝転がり、天井を、見上げたまま、思案する。そこで、僕は、思うのだ。その情報を知る前と、知った後では、少なからず、変化があるのだと。ある意味では、別の人間に、変わってしまっていた。

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 ここにいる僕は、<新しい僕>であって、もう二度と、もとの場所に、戻ることはないのだ。そこにあるものは、自分がもう、無垢ではないという認識だった。それは、モラリスティックな意味での、罪悪感というのではない。大人になるとか、ならないとかを越えて、冷静に、論理的に、向かい合わなくてはならない。ある種の、物理的な事実が、この先に、あふれていることに、間違いはない。