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思考

隠し持っているもの

 ある問題について、何かを考え、行動するとき、その人の、社会的な関係を、理解せずに、なぜ、それを、行うのかを、理解するのは、難しい。その人物の背景にせまるとしても、なぜか一つの限定的な側面からのみ、情報をつかみ取ってしまう。
 例えば、職場環境の改善を訴えるために、労働者が、声をあげるとき、労働者は、労働者としてのみ捉えられ、彼らの中に、それ以上のものを、見ようとはせず、他のすべてが無視される。それは、はたして、本当に正しいのか。

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・難解
 一口に、労働者といっても、例えば、ジェンダー、階級、言語、国籍、人種、宗教など、たくさんのグループに、属している。それを、一つの有力なアイデンティティによって、捉えようとする傾向は、自分自身を、厳密に、どのように見るかを決める自由を、否定することになる。僕らを取り囲む人間関係は、思ったよりも難解で、なにより根本的に、お互い影響しあう生き物であることを、忘れてはいけない。

・何者なのか
 労働者は、黒人だったかもしれないし、あるいは、ゲイだったかもしれない。もっと言えば、イスラム教の信者だったかもしれないし、アラブ民族だったかもしれない。とにかく、自分が何者であるのかと、定義しようとするとき、複数のアイデンティティを、共有していることは、稀なことではないのだ。それを、自由に表現することが、自分を、不利な状況に追い込むのだとしたら、それが、近代化した国家なのかと、目を疑いたくなる。

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 僕らの中に、隠し持っているアイデンティティを、見ようとしない傾向のある、今日の知的風潮に、反対したい。なぜなら、それは、どの社会も持っている、広がりや複雑さを、理解する上で、不適切だからだ。人間は、同時に、誰かの母であり、娘だし、あるいは、父であり、息子だ。個人が、複数の所属を持っていることを、考慮できないようでは、豊かな社会とは、なり得ない。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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