どうして、文章を綴ろうとするのか。あるいは、なぜ、自分を表現しようとするのか。それは、淡々と流れる日常の中で感じる疑問や、自分の居場所を見つけることができない焦燥感に、向き合うことで見えてくる生温い現実と、少し、距離を、置きたいからだ。
うまく社会に適応できない不器用な自分を慰める権利くらいは、僕にだって、あるはずだ。他人から、どう見られているかを気にしないでおこうと決めた瞬間に、既に、誰かに好かれようとしている自己本意な考えから、抜ききれていないことに、気付く。
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・ルールを、理解する
生身の人間は、たとえ、空気と水があったとしても、そんなに、長く生きれない。なにかから栄養を摂らないと、餓死してしまうだろう。それが、この世界の基本的なルールだ。食うために、必死で働くことが、はたして、そんなに多くの意味を、含有しているのか考えてしまう。好きなことだけをして生きていきたいと思うことを、ただのわがままとして捉えられるのは、どんなに社会が変化していっても、変わらない価値観なのだろうか。
・言語化、あるいはナンセンス
いつからか、ひとは、寛容性を失ってしまった。生産性と効率ばかりを追い求めていく過程で、心にゆとりを持つことを忘れている。創作することを、禁じられた芸術家が、窮地に追い込まれた末に、ハンガー・ストライキという非暴力的な抵抗運動を試みようとする心持ちを、説明することは、難しい。だって、どんなに大きな理由があったとしても、その全てを言語化するのは、とてもナンセンスなのだ。
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この人生には、うまく説明のつかないことがいくつもあるし、また、説明すべきではないこともいくつかある。とくに、説明してしまうと、そこにあるいちばん大事なものが失われてしまうというような場合には。
いつも、説明責任を果たすことが、正義だと思う人が多い、この社会は、居心地が悪いと思っている。無口な人は、役に立たない人間として、レッテルを貼られることを、恐れながら、生きなければならない世の中を変えるのに、必要なことって、何なんだろう。