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思考

それでも、僕らは幸せになりたい

 今の社会が、より良いものになっているかを、表そうとするときに、そこに住む人々が、幸福であるかという視点は、切り離すことができない。幸福を、評価の中心に置き、状況の良さを、判断するやり方は、長い歴史を持っている。では、実際、我々が、幸せであるということは、どのような状態であることをいうのか。

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・幸福と所得
 よく語られるのは、貧困か、そうでないかという見方だ。所得が多くて、不自由な暮らしでなければ、幸せで、所得がなく、食べるものに、困るのであれば、不幸であるとみなされる。たしかに、幸福と所得は、切り離されない関係で、一定の説得力を、もつ。けれど、例えば、障害をもつ高所得者と、低所得の五体満足な健常者を、比較するとき、どちらが自由を享受し、幸せに暮らしているかを考えるのは、難しくなる。

・何も、分からない
 貧困を、所得によって捉えることは、貧困の本当の厳しさから、注意を背けさせることになっている。知的で人間的な干渉によって、達成できることを考えると、ほとんどの社会が、障害という共有されない重荷に対して、いかに消極的で、独善的であるかは驚きだ。僕らは、僕らの住む世界のことを、何も分かっちゃいない。

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 即座に感じることは、本当に、正しいのかどうか。当たり前に蔓延る習慣を、疑うことは、案外、大事なのかもしれない。確信や、精神的反応の信頼性について、自分自身で、熟慮することは、精査されない感情について、理性的に、考え直す必要性を、主張することにつながる。幸福は、それ自身は、確かに重要だけど、僕らが、価値を認める、唯一のものでもない。幸福を、追求することだけが、人生の目的だという語り口には、少し、うんざりする。生きるということは、もっと、複雑なのだ。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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