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思考

多数派としての、強者

 適応は、ときに、歪みを生む。希望を持てないほど、虐げられた民衆は、急激な変化を求める勇気を欠き、願望や期待を、実現可能なわずかばかりのものに、合わせてしまう傾向がある。いわば、苦境を、甘んじて、受け入れることによって、耐えるのだ。

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・理由の在り処
 例えば、不寛容なコミュニティにおいて、抑圧された少数者や、非常に、男女差別主義的な文化の下で、服従を強いられる主婦という存在に、気付かないようにみせ、無視し続けることを、不正義と呼ぼう。その悪が、のさぼっていることに、不満を感じる。
 僕らには、互いに意志を伝え合いたい、自分たちの生きている世界のことを、もっと、理解したいと思うのに、十分な理由がある。搾取的な産業において、悪条件で、働かされる労働者が、実は「真の仕事」を行っているのだとしたら、受け取る報酬を、公正なものにしたいと思うのは、それほど、特殊なのだろうか。

・砂の上の線
 必ずといっていいほど、国家の指導者は、群衆の悲惨な状態から、切り離された暮らしをしている。飢餓などの、国家の惨事においても、その犠牲者の苦しみを、共有することなく、生きていくことができる。かつては、無視され、不利な立場におかれた人々に、声を与えるという手段を、どうやって見つけていくのか。
 世界が大きく変化し、急激な社会思想の変化を、反映するように、僕らが、手にする権利は、拡大しつつある。公平で、好ましい報酬を受ける権利さえ、含まれている。人権の主張が、全面的に、受け入れられるようになるとき、世界は、正義の方向へと、舵を切る。それは、砂の上に、線を描くのと同様に、維持しがたいのかもしれないけど。

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 世界で起きる、多くのテロ事件の後、テロリストによる暴力に対する恐怖は、誇張されてきたかもしれない。たしかに、恐怖から解放される権利は、確保されるべきだろう。権利の主張は、利害の対立を生む。そのとき、優先されるのは、多数派のほうだということは、全く、珍しいことではない。権利は、誰のためのものなのかを、もう一度、議論してほしい。いつも我慢するのは、苦しい境遇に直面している人であるなら、それは正しいのかを、よく考えよう。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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