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自分のこと

夢のもとに跪け

 とりあえず、息のできる場所に、逃げたかった。夜になると、近くの港まで自転車を漕いだ。そこから、向かい側にそびえるビル群の明かりを見ながら、祈りつづける。どうか、このさき、今よりも闇が深まりませんようにと。セクシュアリティーを自覚し始めた高校生の僕は、毎日そんなことをしながら、日々を乗り切っていた。たぶん、学校とか、社会のなかで、居場所を見つけられない孤独を、紛らわせていたんだと思う。
 悲しみの感情とは、逆に、ずっと、こんな景色が見れたらいいなと願う、幼くて、脆くて、はかない考えが、頭の中にあった。「感受性」という言葉が、どんな意味を持つのかが、あまり分からないが、それが僕の中で膨れ上がり、現実という高い壁を、無様にたたき壊す想像を張り巡らせていた。青春という、淡い気持ちは、確かに存在していたが、それよりも、何者にもなりえない自我を抑制することが、勝っていた。将来なんてものは、微塵も考えず、あれから長い年月を経て、今、順調に、僕は、くそな大人になりつつある。

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・セクシュアリティー
 「おっさんずラブ -in the sky-」の放映が始まり、注目を集めている。たぶん、僕が子どものころから、ずっと観さされていた物語は、男と女が惹かれあう、恋愛ストーリーだ。異性愛を前提とする社会のなかで、それが強制されてきた頃に比べれば、同性愛をテーマにしたドラマが、できるのは、ある一定の評価ができる。セクシュアリティーという繊細な問題にたいして、コミカルに表現する手法は、斬新だ。

・アイコン、あるいは人間の一部
 だけど、LGBTの人たちって、こんなドラマみたいに、突然キスしたりするんだと、思われては困る。あれは、フィクションだから、そういうつくりになっている。観る人にとっては、興味をひく展開なのかもしれない。だけど、同性愛は、決して、異性愛者を喜ばせるアイコンじゃない。学校や、会社や、地域で、あなたの隣にいる、身近な人の性的指向に過ぎない。あるいは、人間の一部だと言っていい。そこには、笑えない問題もある。差別や、偏見を恐れながら、毎日を過ごしている当事者も、いるかもしれない。そのあたりの、リアリティーを、僕は、見落としたくない。どうか、性の多様性が、したたかに、声高々に、唱われる社会になることを、願っている。

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 夢の話をしたところで、意味なんてない。だけど、間違いなく、無意識と意識の狭間の現実と、関連する場合がある。朝を向かえ、目を覚ます瞬間に、それはくっきりと輪郭をのこし、僕の脳裏に刻まれる。それは、非情な世界に咲いた、一輪の花のように、幻想的な体験だ。何を、言いたいのか分からないけど、そんなときは、ただ、夢のもとに跪くしかない。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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