カテゴリー
思考

鎮魂とは

 鎮魂とは、魂を鎮め、落ち着かせ、傷を癒すことだ。いつも願う。思わぬ事故によって、散ってしまった命が、安らかに眠ることを。たとえ、その行為が、意味をもたないと馬鹿にされても、続ける。もし、それが、正しい行いではないとしたら、いったい、この世界の何に、救済を、求めればよいのか、分からない。そもそも、まったく正しいこととか、まったく正しくないことなんて、果たして存在するものだろうか。その境界は、あいまいだということを忘れ、白黒をはっきりさせずにはいられない物事の捉え方は、極端だし、窮屈なのだ。僕にとっては。

     ★    ★    ★

 例えば、優れた画家が、この世にいない人のために、精魂を傾けて描いた絵があるとする。その価値は、誰によって、決定されるのか検討がつかない。だって、世間のつまらない批評や賞賛は、まったく、意味を持たないからだ。まして、経済的報酬が発生してしまうことは、作者が、望む形ではない。その作品が、多くの人の目に映ることがなくても、ただ、存在するだけで、十分だということもある。なんでもかんでも、ランキングにする傾向は、今に、はじまったことではないけど、それでは、あらわしきれない複雑な価値が、この社会には、あるのだ。

カテゴリー
思考

くだらない、レッテル貼り

 どうして、文章を綴ろうとするのか。あるいは、なぜ、自分を表現しようとするのか。それは、淡々と流れる日常の中で感じる疑問や、自分の居場所を見つけることができない焦燥感に、向き合うことで見えてくる生温い現実と、少し、距離を、置きたいからだ。
 うまく社会に適応できない不器用な自分を慰める権利くらいは、僕にだって、あるはずだ。他人から、どう見られているかを気にしないでおこうと決めた瞬間に、既に、誰かに好かれようとしている自己本意な考えから、抜ききれていないことに、気付く。

    ★    ★    ★

・ルールを、理解する
 生身の人間は、たとえ、空気と水があったとしても、そんなに、長く生きれない。なにかから栄養を摂らないと、餓死してしまうだろう。それが、この世界の基本的なルールだ。食うために、必死で働くことが、はたして、そんなに多くの意味を、含有しているのか考えてしまう。好きなことだけをして生きていきたいと思うことを、ただのわがままとして捉えられるのは、どんなに社会が変化していっても、変わらない価値観なのだろうか。

・言語化、あるいはナンセンス
 いつからか、ひとは、寛容性を失ってしまった。生産性と効率ばかりを追い求めていく過程で、心にゆとりを持つことを忘れている。創作することを、禁じられた芸術家が、窮地に追い込まれた末に、ハンガー・ストライキという非暴力的な抵抗運動を試みようとする心持ちを、説明することは、難しい。だって、どんなに大きな理由があったとしても、その全てを言語化するのは、とてもナンセンスなのだ。

  ★    ★    ★

 この人生には、うまく説明のつかないことがいくつもあるし、また、説明すべきではないこともいくつかある。とくに、説明してしまうと、そこにあるいちばん大事なものが失われてしまうというような場合には。
 いつも、説明責任を果たすことが、正義だと思う人が多い、この社会は、居心地が悪いと思っている。無口な人は、役に立たない人間として、レッテルを貼られることを、恐れながら、生きなければならない世の中を変えるのに、必要なことって、何なんだろう。

カテゴリー
思考

腐敗を、止める

 僕は、自由なのか?そのような問いかけは、何の意味も、もたない。人は、ときとして、覚えていたはずのことを忘れ、忘れていたはずのことを、思い出す。とくに、せわしない日常に、おわれているようなときには。今、求めているのは、そんな、あやふやな記憶なんかではなく、手に取ることのできる、確実な現実なのだ。

     ★    ★    ★

・距離化
 きっと、今も、どこかの国で、空爆によって、多くの人が、死んだり、傷ついたりしている。株価の乱高下と、国会議員の失言のニュースと、並列して、報道される。例によって、心が明るくなるような報せは、ひとつもない。しかし、生活に、今すぐ悪い影響を、及ぼしそうな事件は、起こっていない。それらは、どこか遠くの世界の出来事であり、見知らぬ他人の身に、降りかかっている。

・小さな世界で生きる
 外の刺激から逃れるように、読書にのめり込む時間が、必要だ。そのときだけ、僕は、この世界に、有機的に結びついているのだと感じることができる。論理でもなく、観念でもなく、あくまで精神的なことを通して、社会に、繋ぎとめられている。いわば、小さな世界で生きているのだ。たとえ、それが、利己的だという、峻烈な批判を浴びようとも、守らなければならない。自分だけの世界を。

     ★    ★    ★

 大抵の行為には、それなりの意義や、正当性を与えられる。たとえ、どんなに非人間的な行為であっても。国のために、戦地に赴き、暴力的なシステムの中に放り込まれ、筋の通らない命令に従うことを強制され、死んでいった命を思うと、心が痛む。
 自分の思う通りに本を読み、考えることを、誰にも邪魔されない社会を、これから築いていこう。そもそも権威は、それらの類いの尊厳を保つためのものだ。どうか、権力が、腐敗しないで、正しく行使される世の中であることを、願う。

カテゴリー
自分のこと

渡り鳥のように

 テレビは、相変わらず、世の中の動きを、鮮明に、映し出している。それを、リビングで眺めながら、黙り込む。たれ流しになっている情報が、どれだけの人の脳に、刷り込まれて、そこから派生した感情は、どこに向かうのだろう。

  ★    ★    ★

・奇妙なこと
 せっかく、過去の記事で、自分のセクシャリティーについて語ったのだから、それについて、何か書こうと思っても、特に、思いつかない。それは、ゲイというアイデンティティーが、僕の、ほんの一部分にすぎないのだということが、分かる。問題は、そうだとしても、なにかしら、書けと迫られる、あるいは、説明することを余儀なくさせる、空気感に、あるのかもしれない。
 そもそも僕は、カミングアウトという言葉が、好きになれない。たいそれた名前をしているけれども、個人的には、そんなことをしなければ、自分について、語れない社会のほうに、問題があるんじゃないかと思っている。だって、わざわざ、あらためて、性的指向について、他人に、語らなければならないって奇妙だし、それが、どれだけ、当事者に、プレッシャーをかけていることを、想像できない世の中なんて、どれだけ、せちがらいんだろうか。

  ★   ★   ★

 人の心と心が、時間の経過に沿って、くっついたり、離れたりするものだというくらいのことは、もちろん、わかる。人の心の動きというのは、習慣や常識や法律では規制できない、どこまでも、流動的なものなのだ。たしかに、人生の一部分を交えた相手が、他のだれかと、付き合うことになることなんて、多々ある。ハッピーエンドの映画の結末のようにならない人生に、辟易したとしても、国境という概念を持たない渡り鳥のように、自由になれる日を、待ちわびながら、眠りにつく。

カテゴリー
思考

永眠を、想像する

 一日の終わりに目にするニュースが、日に日に、意味のないものに、なりつつある。なぜだろう。なにを聞いても、心に響かないというか、なぜ、それを、多くの人に伝えようと思ったのかを、伺いしることができない。そもそも、世界中で起きる出来事の中で、報道されるべき意味をもつものなんて、10年に、一度あったらいいほうにちがいない。それでも、習慣として、テレビから流れる情報に、耳を傾けることが、生活の一部になっている。いくら、関心がないからといって、たとえば、地球が今まさに、破滅の淵にあるというのに、僕だけが、それを知らないでいるとなれば、それは、やはり少し、困ったことになるかもしれない。

     ★     ★     ★

・可能性を、抱く
 僕が思うには、いささか、本当のことを知ることに、価値をおきすぎている。だから、あれやこれや、誰が悪いだの、責任は、どこのどいつにあるんだとかを、追求したがる。彼らは、真実が、だれにとっても、幸せを運ぶと、勘違いしている。真実は、むしろ、混乱をもたらし、どれほど、深い孤独を、人にもたらすのかを、考慮しない。ひとつの可能性を、心に抱いたまま、これからの人生を生きていこうと考える人は、世の中で繰り広げられるスキャンダルに、一喜一憂している彼らを、滑稽にみているのだ。

    ★    ★    ★

 想像の力は、限りなく無限だ。いずれ、誰しもに訪れる、永眠へのプロセスについても、推し量ることができる。亡くなった人の声は、僕らには、届かない。だから、死について語ることは、どれも想像にすぎない。あるいは、妄想だと言ってもよい。
 もちろん、今すぐに、死にたいわけじゃない。ただ、頭の中で、思い浮かべるだけだ。死というものを、仮説として、もてあそんでいるんだ。明日も生きることが前提となっている、まだ、希望や可能性に満ちているといえる僕らが、できることなんて、たかがしれている。でも、だからこそ、想像する力が、今まで以上に、求められている現状が、目の前に、横たわっている。

カテゴリー
自分のこと

無題

 今年で、30歳になる。その前に、片付けておかなければならない問題が、ある。かつて、僕のきれいな手が、好きだと言ってくれた彼は、隣には、もういない。

  ★    ★    ★

・カテゴライズ、あるいは無意味
 中学生の頃、周りの男子は、女の子の裸に、興味が湧いてきだした頃で、楽しそうに、性について、語っていた。その話を、まるで、違う惑星の話のように、横で聞き流し、自分には、性的な興味は、一生湧いてこないんだとさえ、思っていた。僕が、ゲイ・セクシャリティという属性を有することに、気付くのは、後のことだった。
 以前、僕の心を震わせ、距離を近づけたいと思う、女性がいた。彼女と、付き合うことになったんだけど、一緒に、映画を観たり、話したりするのが楽しい時期で、それ以上、進展することはなかった。そういうのを、バイセクシャルというのかもしれない。けれど、そうやって、人をカテゴリーに分けようとする作業は、何の意味も持たないと、知ったことは、ひとつの救いだ。どこまでいっても、とんでもなく不器用な自分という存在が、ここにいるだけなのだ。

・もやもやしたもの
 こうしてブログで、自分のセクシャリティについて、語ろうと思ったのは、とあるゲイ男性のブログをみて、影響されたんだけど、それ以上に、もうちょっと、心の中にある、もやもやとした部分と、深く向き合うことが必要なのではと、感じたことが大きい。インターネットという開かれた場に、文章を綴るという手段を使って。顔を出そうと思ったのも、少なからず、リスクを負うことによって、生半可な気持ちではないと知ってもらうためだ。でも中には、そんな、他人の性的指向の話なんて、聞きたくないよと、いうかもしれない。

・もう一度言う
 だけど、もう一度言う。僕は、ゲイだ。(あるいはバイセクシャルだ。)もう思春期を迎えた頃の、うぶな子どもではない。だから、想像できる。性は、体やベッドの上の話だけではない。人生、そのものだ。それをいったところで、性的少数者について、理解してほしいなんていう、崇高な思いは、持ち合わせていない。顔を出して、性について語ること(それをカミングアウトと呼びたきゃそう呼べば良い)で、何かが変わるなら、世界は、もっと、はやくに良くなっているはずだ。
 ただ、みんなが当たり前にしているように、自分を語らずにはいられない衝動を、解き放ちたい。彼氏のことを、彼女に置き換えながら、嘘を交えて会話するのを、やめて、実直に、語りたい。異性愛が中心となって構成されている社会において、少なからず、誰にも相談できず、抑圧されている人間がいることを、知って欲しい。そして、声に出せず身動きをとれなくなっているのはなにも、ゲイや、レズビアンだけではないという事実に、思いあたらずにはいられない。

・多面的
 けど今はあえて、セクシャル・マイノリティについて言及したい。ニュースで取り上げられる難民の中に、ゲイがいる。耳が聞こえない聾唖者の中に、レズビアンがいる。不況の波に襲われ、路上で暮らしている野宿者の中に、トランス・ジェンダーがいる。それは、虚構でもなく、ただの突きつけられた現実であることは、少し頭を働かせれば、分かることだ。
 僕が、知って欲しいのは、この世界は、もちろん、幅があって、奥行きがあって、かつ、複雑な拡がりを見せている。そして、それは、案外すぐとなりに、欠片となって散りばめられている。そこで暮らす人々は、平面的なわけがなく、多面的に、形成された人格を持ち合わせている。理解し合うことが困難と分かっていても、気持ちを共有したり、慰め合ったりして、分かり合う方法を模索するのが、人間の姿なんじゃないだろうか。

    ★     ★     ★

 これからさき、このブログに、どんなことを書こうか、まだ決めてないんだけど、よろしければ、お付き合いください。よろしくお願いします。

カテゴリー
思考

多数派としての、強者

 適応は、ときに、歪みを生む。希望を持てないほど、虐げられた民衆は、急激な変化を求める勇気を欠き、願望や期待を、実現可能なわずかばかりのものに、合わせてしまう傾向がある。いわば、苦境を、甘んじて、受け入れることによって、耐えるのだ。

   ★    ★    ★

・理由の在り処
 例えば、不寛容なコミュニティにおいて、抑圧された少数者や、非常に、男女差別主義的な文化の下で、服従を強いられる主婦という存在に、気付かないようにみせ、無視し続けることを、不正義と呼ぼう。その悪が、のさぼっていることに、不満を感じる。
 僕らには、互いに意志を伝え合いたい、自分たちの生きている世界のことを、もっと、理解したいと思うのに、十分な理由がある。搾取的な産業において、悪条件で、働かされる労働者が、実は「真の仕事」を行っているのだとしたら、受け取る報酬を、公正なものにしたいと思うのは、それほど、特殊なのだろうか。

・砂の上の線
 必ずといっていいほど、国家の指導者は、群衆の悲惨な状態から、切り離された暮らしをしている。飢餓などの、国家の惨事においても、その犠牲者の苦しみを、共有することなく、生きていくことができる。かつては、無視され、不利な立場におかれた人々に、声を与えるという手段を、どうやって見つけていくのか。
 世界が大きく変化し、急激な社会思想の変化を、反映するように、僕らが、手にする権利は、拡大しつつある。公平で、好ましい報酬を受ける権利さえ、含まれている。人権の主張が、全面的に、受け入れられるようになるとき、世界は、正義の方向へと、舵を切る。それは、砂の上に、線を描くのと同様に、維持しがたいのかもしれないけど。

   ★    ★    ★

 世界で起きる、多くのテロ事件の後、テロリストによる暴力に対する恐怖は、誇張されてきたかもしれない。たしかに、恐怖から解放される権利は、確保されるべきだろう。権利の主張は、利害の対立を生む。そのとき、優先されるのは、多数派のほうだということは、全く、珍しいことではない。権利は、誰のためのものなのかを、もう一度、議論してほしい。いつも我慢するのは、苦しい境遇に直面している人であるなら、それは正しいのかを、よく考えよう。

カテゴリー
思考

それでも、僕らは幸せになりたい

 今の社会が、より良いものになっているかを、表そうとするときに、そこに住む人々が、幸福であるかという視点は、切り離すことができない。幸福を、評価の中心に置き、状況の良さを、判断するやり方は、長い歴史を持っている。では、実際、我々が、幸せであるということは、どのような状態であることをいうのか。

    ★    ★    ★

・幸福と所得
 よく語られるのは、貧困か、そうでないかという見方だ。所得が多くて、不自由な暮らしでなければ、幸せで、所得がなく、食べるものに、困るのであれば、不幸であるとみなされる。たしかに、幸福と所得は、切り離されない関係で、一定の説得力を、もつ。けれど、例えば、障害をもつ高所得者と、低所得の五体満足な健常者を、比較するとき、どちらが自由を享受し、幸せに暮らしているかを考えるのは、難しくなる。

・何も、分からない
 貧困を、所得によって捉えることは、貧困の本当の厳しさから、注意を背けさせることになっている。知的で人間的な干渉によって、達成できることを考えると、ほとんどの社会が、障害という共有されない重荷に対して、いかに消極的で、独善的であるかは驚きだ。僕らは、僕らの住む世界のことを、何も分かっちゃいない。

    ★    ★    ★

 即座に感じることは、本当に、正しいのかどうか。当たり前に蔓延る習慣を、疑うことは、案外、大事なのかもしれない。確信や、精神的反応の信頼性について、自分自身で、熟慮することは、精査されない感情について、理性的に、考え直す必要性を、主張することにつながる。幸福は、それ自身は、確かに重要だけど、僕らが、価値を認める、唯一のものでもない。幸福を、追求することだけが、人生の目的だという語り口には、少し、うんざりする。生きるということは、もっと、複雑なのだ。

カテゴリー
思考

隠し持っているもの

 ある問題について、何かを考え、行動するとき、その人の、社会的な関係を、理解せずに、なぜ、それを、行うのかを、理解するのは、難しい。その人物の背景にせまるとしても、なぜか一つの限定的な側面からのみ、情報をつかみ取ってしまう。
 例えば、職場環境の改善を訴えるために、労働者が、声をあげるとき、労働者は、労働者としてのみ捉えられ、彼らの中に、それ以上のものを、見ようとはせず、他のすべてが無視される。それは、はたして、本当に正しいのか。

  ★   ★   ★

・難解
 一口に、労働者といっても、例えば、ジェンダー、階級、言語、国籍、人種、宗教など、たくさんのグループに、属している。それを、一つの有力なアイデンティティによって、捉えようとする傾向は、自分自身を、厳密に、どのように見るかを決める自由を、否定することになる。僕らを取り囲む人間関係は、思ったよりも難解で、なにより根本的に、お互い影響しあう生き物であることを、忘れてはいけない。

・何者なのか
 労働者は、黒人だったかもしれないし、あるいは、ゲイだったかもしれない。もっと言えば、イスラム教の信者だったかもしれないし、アラブ民族だったかもしれない。とにかく、自分が何者であるのかと、定義しようとするとき、複数のアイデンティティを、共有していることは、稀なことではないのだ。それを、自由に表現することが、自分を、不利な状況に追い込むのだとしたら、それが、近代化した国家なのかと、目を疑いたくなる。

  ★   ★   ★

 僕らの中に、隠し持っているアイデンティティを、見ようとしない傾向のある、今日の知的風潮に、反対したい。なぜなら、それは、どの社会も持っている、広がりや複雑さを、理解する上で、不適切だからだ。人間は、同時に、誰かの母であり、娘だし、あるいは、父であり、息子だ。個人が、複数の所属を持っていることを、考慮できないようでは、豊かな社会とは、なり得ない。

カテゴリー
思考

国境を、越えて

 その社会に生まれ、そこで生きていくことになる。この事実が、重い。どうして、経済的に豊かな国と、そうでないところに生まれた人々の格差を、何事もなく、見過ごさなくてはならないのだろう。
 もちろん、国境線は、法的な意味を持つ。けれど、僕たちのアイデンティティの感覚は、単に、国境の内側だけに、限られるわけではない。同じ宗教、人種、性別、政治的信条、職業を持つ人々を、仲間と思う。ときには、関係のない人へ、思いを馳せるときもあるのだ。

   ★   ★   ★

・偏狭主義の、克服
 他人に、寛容で、親切であることは、素晴らしいことだ。でも、隣人ではない他人に対して、何の義務も負わないと、論じることは、やや、せばまった考えではないだろうか。もし、他者(近くの人であっても、遠くの人であっても)に対して、何かを負っているなら、たとえ、その義務が、非常に、曖昧なものであったとしても、慈悲深い人道主義の領域に切り離すのではなく、僕たちの正義についての思考の範囲内に、含めるべきだ。
 結局、僕がここで言いたいことは、自分が属するコミュニティだけに、優しくするのではなく、それ以外の場所にいる他者にも、同じようにするということである。僕たちの選択と行動は、遠くの人々の暮らしにも、影響を与えるのだ。それを、忘れてしまえば、自分自身の偏狭主義を、克服することはできない。

・好き嫌いで、論じる
 たとえば、経営者か労働者か、女性か男性か、保守主義者か社会主義者か、金持ちか貧しいかなど、多様なグループが存在する。今、自分が属しているグループだけが、利益を得ればいいという考えは、はっきり言って、嫌いなのだ。グループに属していない人々の声を、排除することが、まかりとおっているようでは、僕らが目指すべき社会とは言えない。

    ★    ★    ★

 世界中で、何十億という人々を、苦しめている、経済危機を、どのように、克服するのかについて、議論を行っているまさにこのとき、国境を越えて、互いに、理解し合えないという主張を、受け入れることはできない。むしろ、こんな時代だからこそ、遠くの人の声に、耳を傾ける必要があるのだと思う。