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思考

記憶の残滓

 社会が、変動していく。それは、べつに、ここに限ったことじゃない。世界が、急速に、しぼんだり、膨れ上がったりしている。価値観が、多様化していき、制度やしくみが、新しくなっていく。たぶん、その根っこにあるのは、個人が、自由になろうとする意志だ。僕らは、自分を縛るものを、遠ざけ、選択できる権利を主張してきた。その結果、ありとあらゆるものが、流動化していく。 

    ★    ★    ★

・声をあげる
 芸能人が、政治の話をすると、煙たがられるという風土は、本当にださい。これから、国を、どんなふうにしていくのかを、議論するのに、いろんな知識はあったほうがいいかもしれない。(そもそも芸事をしているからといって、知識がないとすることじたい、ナンセンスだ。)言いたいことを、言えばいい。間違ったら、出直せばいい。もし、あなたは、政治について、なにも理解していないのだからと言って、自分とは、そぐわない意見を封じ込めようするなら、それこそ、間違っている。
 たぶん、次の世代に、何を残していくべきかという視点が、欠けている。いまの子どもたちが、大人になったとき、こんな社会だったら、生きにくいよねっていう部分を、変えていけばいい。なのに、今の政財界のトップの多くは、利権にぶらさがって、富を吸い尽くそうとしているみたいだ。権威に、いつまでも、ひれ伏す民衆を、演じるのも、飽いている。だから、声を、あげるべきだ。

・無常
 なんで、そんなに、怒っているんだろう。容赦ない言葉が、弱者に、向けられる。たぶん、満たされないと感じる、マジョリティーの叫びと、僕は思っている。自分とは、立場がちがう人間を、受け入れることができず、排除していく。変わっていく情勢に、なす術もない。だけど、無常に逆らうことはできない。一切のことは、生まれては、消えていく。
 ひとりひとりが、抱えるバックボーンは違う。生まれ育ってきた環境も、異なる。だけど、人は、何かしら、過去に執着している。忘れられない出来事について、言葉にしようとしても、ままならない。そして、伝える術を探すように、生きて、十分に語ることのできないまま、死んでいくのだ。
 
     ★    ★    ★

 家族で過ごした、断片的な思い出が、記憶の残滓として、眠っている。それは、大人になった今も、大きな塊になって、僕という存在の柱として、機能している。時が進むにつれ、以前よりも増して、自分を形成する要素について、考えるようになった。ただ、それは、年老いた人間になっただけなのかもしれないけど。

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映画レビュー

043 「存在のない子供たち」(2019)

<基本情報>
2018年、レバノン発。
第71回カンヌ国際映画祭で、審査員賞ほか、全2部門で、受賞を果たす。
監督は、長編初となった「キャラメル」で、注目を集めた、ナディーン・ラバキーが、務める。
原題は、「capharnaum」。

 中東映画という、枠組み。国境は、たえず、僕らに重くのしかかる。世界は、あたかも、ひとつに、つながっているかのようだ。でも、ふたをあけてみると、まるで、社会は、いくつもの、セクターに、分断されている。そこで、暮らす人たちは、必ずしも、いいことばかりに、見舞われていない。現実に、目を背けたくなることもある。映画を観ただけで、何かを、分かったような感覚でいられるのは、楽観主義だろうか。それでも、問い続けるということを、やめないでいたい。そう思わせる力が、この作品にはある。

 日本で、生まれたなら、幸せで、貧しい国に、生まれたら、不幸なのか。「貧困」、「移民」という社会問題は、往々としてある。それを、テーマにした作品は、社会派とうたわれる。映画のジャンル分けに、どれだけの意味があるんだろう。だけど、ひとつ確実に言えるのは、本作は、娯楽作品とは、一線を画している。観終わった後の、不思議な脱力感。物語を、どんなふうに解釈し、心の中の、どの位置に、置き場所を定めようか、分からないのである。そんなふうに思ったのは、はじめてかもしれない。

 貧民街で暮らす12歳と思われる少年・ゼイン(両親さえ、彼の年齢を把握していない)は、出生届が提出されていないため、IDを持っていない。彼が、両親を告訴するところから、この物語は、はじまる。それに、至までの経緯を、実情を踏まえた展開とともに、つぶさに、描き出していく。うまくいかないことばかりだと、どうして、自分は生まれてきたんだろうと、感じる。ふさぎ込んでいるわけではなく、ただ漠然と思うのだ。厳しい状況を、目の前にして、彼は、子どもながらにして、それを、実感していく。その眼差しは、「命の始まり」に対する、疑念を抱かせるまでに、神々しい。

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心情

完璧な青春を過ごしたやつなんて、いない

過去を振り返って、思う。
あのとき、僕は、狂っていたんだなと。
ひたすらに、つるむことを避け、他人からの目線に恐怖していた。

呪いにちかい、決まり事を、自分に課し、目に見えない敵と、戦っていた。
答えを見つけようと必死になるうちに、遠のいていく、人間性。
「ちゃんとしなさい。」という言葉が、「それができないなら、命を絶つべきだ。」に、変換されていく。

ただ過ぎていく時間のなかで、「今」だけが、美しかったし、尊かった。
考えなければならないことが、若い僕にはあったし(それに意味があろうと、なかろうと)、だれかと向き合う余裕なんて、なかった。

たぶん、後悔のない青春を送ったやつなんて、いない。
欲しいものを、全て、手に入れて、傷つくことに、繊細にならない。
もし、そんなのがいたら、それはつまらない人間だろう。

くそみたいな社会。
目標や、夢なんてない、ない。
ただ、呼吸のできる場所へ、行く。
まだ、死ななくてもいいなと思える、一瞬を求めて。

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映画レビュー

042 「希望の灯り」(2019)

<基本情報>
2018年に、ドイツで公開される。
第68回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品され、賞賛を受けた。
旧東ドイツ出身の作家、クレメンス・マイヤーの短編小説「通路にて」を、映画化。
原題は「In den Gangen」。

 自分の好みが、はっきりとしないときは、とりあえず、手当たり次第、作品を観ることになる。徐々に、好きな監督だったり、肌に合う作風だったりが、明確になってくる。今作は、僕の欲する要素が、ふんだんに盛り込まれている。観終わった後に、こういう映画が、もっと作られればいいのにと思った。静かに、ストーリーが進んでいく。けれど、一つ一つのシーンに、重みがある。どのセリフも聞き逃したくないから、スクリーンに集中する。あっという間の、2時間だ。

 ベルリンの壁が崩壊したとき、僕は、まだ幼子だった。歴史の授業で、その事実について学ぶことになる。教科書に貼付けられた写真には、嬉しそうに、壁の上にたって騒ぐ人たちが、おさめられていた。そのとき、なぜ民衆が、そろいも揃って、喜んでいるのかが、分からなかった。歴史のうねりに、翻弄されながら、生き抜いていく力強い人間の逞しさや、繊細な心についてなんて、当時は、知る由もない。大人になって、少しなら、慮ることができる。たぶん、良いことばかりが、起きたわけじゃない。怒濤に変化していく社会に、なす術無く、あおられた人生が、そこにあったんだろう。

 旧東ドイツ・ライプツィヒ近郊の田舎町に建つ、巨大スーパーマーケットが、舞台だ。寡黙な青年、クリスティアン(フランツ・ロゴフスキ)は、新しい職場で、少しずつ仕事を覚え、周囲と打ち解けていく。それは、たぶん、どこにでもあるお話だ。それを、つまらないと感じるなら、この映画は、観ない方がいい。だけど、なんの変哲もない、遠い国の、何気ない日常に、心が締め付けられる。いっけん、物語は、暗いムードのまま、終わりを迎えるのかなと、思わせる。そして、かろうじて、希望の灯りを、残す。それは、ほんとうに、ちっぽけで、こころもとないものかもしれない。だけど、生きていくには、それで充分なのだ。

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心情

<マゾヒズム>と<サディズム>

宗教をかたく、信仰しているわけでもない。
村社会に、身を置いているわけでもない。
家父長制を重んじる親のもとに、いるわけでもない。
上下関係が厳しい封建的な会社に、勤めているわけでもない。

僕を縛るものなんて、何一つなくなってしまった。
それが、生きやすい世の中なのか。
あるいは、ただ、不安が増したのだけなのか。
自由を手に入れた後、いったいどこを目指すべきなんだろう。

コロナに打つ勝つために、ひとつになりましょう。
団結して、絆を取り戻しましょう。
それに、違和感を抱く。

圧倒的な権力に惹かれ、それに従う<マゾヒズム>が、目覚めていく。
やがて、それは、弱者をいじめる<サディズム>に、変化してく。

また近代を、やり直すつもりなんだろうか。
今を生きる、僕らなりの、手の取り合い方がある。
#コロナに負けるな

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社会の出来事

性別について、あるいは「らしさ」を押し付ける暴力

 かっこいい大人になりたい。ただ、それは、不特定多数の人に、性的な目で見られることを、望んでいるのと、同義ではない。いま、目の前にいる、あなとにとって、魅力的な人間でありたいと思う。その違いは、理解しておくべきだ。
 性別という、差異を、ありのまま受けいれ、なおかつ、平等に扱われる社会。でも、はたして、それは、どんな世界なのか。今日も、ただ、男として、女として、目に見えない構造の中で、抑圧される。もちろん、男でもない、女でもない、性別に生まれた人間の、既存の枠組みに抗う、勇気に敬意を持ちながら。

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・風俗嬢に関する、岡村隆史氏の発言について
 ラジオにて、「コロナが明けたら、お金に困った美人さんが、風俗嬢に流れ込んでくる。」という、主旨の発言。(実際の詳しいことは、知らない。)これをうけて、いたるところで、批判が起きている。それは、当然だと、思う。セックスワーカーについて、専門的なことは、分からない。でも、どうしようもない状況で、やむを得ず、その仕事に就くことを、嬉々として待ち望むのは、違う。
 一方で、たぶん、綺麗な女性や、かっこいい男性と、一夜を共にしたいと思う、ゲスい欲望って、誰にでもある。お金を払えば、その願望が叶う。そういう社会を、放置してきたのだ。人間を、商品にみたてて、性的に搾取する。それは、いまに始まったことじゃない。セックスは、相手の貧困につけ込んで、およぶ行為じゃない。それを、再確認するべきだ。

・鏡に映った自我
 こうすれば、周りから、認められるんじゃないか。そんな、考えに、埋め尽くされる。つねに、鏡(社会)に映る自分を、想像する。女性なら、愛嬌のある笑顔をするべきだ。男性なら、仕事に精を出さなければならない。それに、答えていこうと努力するやつが、悪いんじゃない。問題は、求められた役を演じない、規範に従わない人間を、排除していくシステムにある。
 たとえば、ゲイ・セクシュアリティーの男性の、女性らしい振る舞いをみて、否定する。それは、「男らしさ」を強要する暴力に、他ならない。性が、倒錯することに、不安を抱く人がいる。だけど、セクシュアル・マイノリティーの当事者は、あなたの幸せを、奪おうとしているんじゃない。ただ、自分自身の性に、誠実であろうとしている。その姿勢にたいして、差別することを、僕は、肯定しない。

     ★      ★      ★

 みんながみんな、与えられた役割を、果たそうとしていたら、社会は、なんら変化しない。心のなかに眠る、いい顔をしようとする自分に、抵抗する。既存のルールを、壊していく。人が、はじめて主体性を手にしたとき、社会は、改善していく。「男は、女よりも、えらい。」そんな、くだらないことを、いつまでも言う人間は、置いてけぼりにしてしまえばいい。僕らは、いま、確実に、不確かな未来を、手にしようとしている。

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心情

誰かが、誰かを傷つけないように

ここ最近の娯楽は、もっぱら公衆浴場での、入浴。
そこで、顔なじみのおっちゃんたちが、交わす言葉が好き。
まさに、それは、中間集団そのもので、ずっと残していかなければならない風情だ。

ネットで飛び交う、誹謗中傷。
それは、べつに無視すればいいし、人間の本性まるだし感があって、憎めない。
ただ、意図的に、個人を攻撃したり、差別するのは、間違っている。

間違っていることにたいして、それは、間違っていると、言うこと。
それくらいのことしか、僕らには、できない。
その人が、その思考に辿り着いた過程を、想像する。
もう少し、時間をかけて、言葉にするまで、吟味することは、できなかったのか。

なにも相手が、どう感じるかに、思いをめぐらすことを、押し付けはしない。
その行為は、容易に達成されるものでは、ないからだ。
いつか、銭湯での世間話みたいな会話を、ネットに再現できる日を願う。
(それは、たぶん、人間のモラルが、上限をこえた時だ。)

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心情

宿命

家族とか、会社とか、学校とか。
個人と、社会を、つなぎあわせるコミュニティー。
それらが、窮屈でしかたなかった、あの頃。
僕は、一人になりたかった。

インターネットの、出現。
新しい共同体に、とってかわろうとしている。
常に、誰かと、つながっている感覚。
だけど、不安なことに、変わりはない。
それは、現代を生きていくことの、宿命か。

移ろいゆく世界で、人間は、何に、救いを求めるようになるんだろう。
本質的な変化を、期待しているのに、同じことを繰り返す。
無限にふくれあがる、情報空間。
共感できる思想には、いいねをし、それ以外を、排除していく。

コロナ禍で、いろいろ思うところが、あるかと思います。
突き詰めて言えば、これから、どうなるかなんて、誰にも分からない。
価値観を、アップデートし続けるために、発信する。
生きづらさを抱える、あなたに向けて。

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映画レビュー

041 「ヒトラーの忘れもの」(2016)

<基本情報>
2015年に、第28回東京国際映画祭コンペティション部門に出品される。
その際の、題名は、「地雷と少年兵」。
戦争の爪痕として、デンマークの海岸に残された地雷。
それを、取り除く使命を課せられたのは、ドイツの少年兵たちだった。
マーチン・ピータ・サンフリト監督が、史実をもとに、過酷な現場の様子を、えぐりだしていく。

 ナチス・ドイツを題材にした作品は、いくつもある。ヒトラー率いる帝国軍が、してきたことを、ここで議論するつもりは、ない。第二次世界大戦後においても、なお、それらの映画が生まれることの、意味や、成り立ち、関係性について、もっと見直されるべきではないか。この物語は、ただ単に、反戦を唱えているわけでなはい。人は、できるだけ、死なない方が、いいだろう。みんなが、そう思っている。だけど、現実は、違う。今日もまた、どこかで、なんの落度もない人間が、不条理に死んでいく。そのリアリティーを、映像を通して伝えていく。

 国家の指令によって、翻弄される、かけがえのない人生。消えていく命。歴史から、見えてくる、人間のなかに内在する暴力性。どれだけの個人の尊厳を奪っていけば、自らの行為を、改めることができるんだろう。映画を鑑賞して、心が和んだり、癒されたりする。そんな体験を望む人に、今作は、おすすめできない。その理由は、観れば分かる。どんな言葉でも、表現できない感情がある。胸が、えぐられるような、感覚を、植え付けてくるという点において、この作品は、他と一線を画している。

 ラスムスン軍曹(ローラン・モラー)は、ナチスに、強い憎しみを持っている。けれど、徐々に、その怒りをぶつける相手について、深く考え込むようになる。その変化していく心情を、見事に演じていく。戦争が終わっても、なお、人間に残していった憎悪。その思いは、これからを、生きていく者への「愛」へと豹変していく。戦争や、餓えを知らない、僕の書く文章が、行き着く先は、どこなんだろう。間違いなく、誰かを傷つけていたし、今も、そうなんだと思う。それを自覚して、記憶に残していく作業が必要なようだ。

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心情

労働とは

働くことの、意味。
時間を、切り売りして、得る賃金。
自分を押し殺して、社会人を演じた、対価。
新しい価値を生み出したことによる、報酬。

労働によって、社会とつながる感覚は、消えそうにない。
結局、自分で稼いだお金で、欲しいものを選択して、購入する楽しみ以上のものがない。
消費社会に、すっかり順応している僕ら。

なんだかんだ言って、食っていくには、金がいる。
その日をやっと暮らしていける。
それで充分じゃないかと思う。
そして、たぶん、何事もなかったかのように、人生は、幕を下ろす。
そんな、生き方が、いい。
(貯蓄によって、得られる精神的な安心を、否定するつもりなはい。)