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社会の出来事 自分のこと

3つの命

 朽ち果てていく定めのなかで、どう足掻いても、心のゆきどころが見つからない。ただ、社会化を目的に教育された僕たちが、誰からも侵されない自由を手に入れるなんて不可能なのだ。もし、落ち着ける場所があるならば、それはきっと深い眠りの間に存在する、薄暗い闇と悲しみが入り交じった、荒れ果てた宇宙のなかだ。

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・いびつ
 「知性」という怪物が、体の奥の方を、刺激する。いつの時代にも、愚かな民衆はいた。移りゆく時間は、一向に止まる気配はない。ある前提条件が前置きされた状況で、たくさんの人間が選択してきた制度は、歪だ。整合性のとれたものを求めて人間が、試行錯誤してきたならば、その所業は、失敗に終わったといっても過言ではない。

・覚悟をみせろ
 僕はここで、安倍政権批判をしたい訳じゃない。でも、目に余る偏向報道について、何かを言わなければいけない焦燥感が拭えない。ニュートラルな立場での言論は、誰かの熱狂的な支持を得ないかもしれない。でも、メディアの果たす役割を考えたとき、名もなき人々を傷つける言葉を選んではいけない。権力側に、すり寄るんじゃなくて、公平に批判を展開しなければならない。僕の怒りの発生源を、突き止める作業は、困難を極める。きっと、そこで暮らす市民は、世の中の空気を、敏感に読み取っている。利権に群がる連中がいることを知っているし、自己の保身に走る汚い大人がいることも知っている。もし、良識に反した意見を押し通すなら、その覚悟を見せろ。自分の思想に、賛同してくれる人にだけ向けた言葉はいらない。

・覚醒
 僕は、この世界に、3度、生まれた。1回目は、母親のお腹から産まれおち、産声を上げたとき。2回目は、自分のセクシュアリティーを自覚したとき。3回目は、父親が死んだときだ。それぞれの節目で、覚醒とも呼べる、なにか研ぎすまされた知覚を覚える。どうしようもない不条理や、生まれた国によって違う待遇、多様な文化、人間の尊厳、そんなものを、知ったんだと思う。社会における、自分の階級、居場所、立場を、確立していくなかで、弱者と呼ばれる層が存在することから、けっして目を逸らしたくなかった。いつだって心のひだに届くのは、どん底にいても、けっして希望をすてない人間の姿なのだ。それを、笑って馬鹿にする行為を、僕は許さない。

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 自分が、どう格付けされているのかを執拗に気にする人が一定数いる。日本は、韓国より格上だ、その事実を脅かすものには攻撃しなければならない。でも、僕は思う。自分のよりどころは、たぶん、自分にしかない。死にむかっていく過程で、思い知らされるのは、孤独という感情が、あまりにも僕らを、覆っていることだ。たぶん、死ぬ時も、一人だと思う。想像だけど。誰かと一緒に、死ぬことはできない。光に、すべてを期待する時代は、終わった。命の店じまいにむけて、淡々と生きるのだ。

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自分のこと

荒波を越える

 たくさんの人でごった返す町並みを、くぐりぬける。風は、いつもと変わらない。いま僕が生きている社会というものは、なんら間違っていないような体をよそおう。だれしもが、いるべきところにおさまり、行き着く場所へと向かっていく。それは、まるで、意志をもたないロボットの行進だ。でも、本当はひとりひとりが、心をもち、意識をもち、考えを持っている。
 そもそも、社会問題と呼ばれる解決しなければならない懸案は、いつから生まれたのか。人間が、なんとかしなければという危機を感じているからこそ、問題になる。そうだとするならば、課題として認識されない問題は、その存在さえもなきものにされる。苦しんでいる人、一人じゃ、どうしようもなく悩んでいる人、すでにあきらめて戦うことをやめてしまった人、そんな人が、この社会の片隅にたくさんいることは、隠しようがない。

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・まとまりのあるもの
 この国は、ある一定のまとまりをもっている。もちろん、思想の違いだってある。格差だってある。それぞれの主義、主張は当然ある。だからといって、争いをするわけではない。みんなが納得する答えなんて、たぶんない。へんにナショナリズムを煽るのには、違和感を感じる。でも、なんだかんだいって、僕らは、おなじ国に住む民衆として、ひとつになっている。
 でも、もっとマクロな視点で言えば、人間は複数の群れに分かれ続けている。もっと時間が経てば、ひとつの集合体になるのかは、分からないけど、とりあえず、離れたり、くっついたりを繰り返す。そりゃ、簡単にはひとつにはならない。

・僕の話
 ここで、僕のことについて、話を戻す。つまり僕がここで言いたいことは、人間社会は、絶えず差別化をするのが基本だよということ。同性愛者であることを理由に、嫌な思いをした人は、多くいるかもしれない。それが怖くて、うまく自分を語れない人だってたくさんいる。だからといって、当事者の痛みに寄り添えとか、それだけの問題じゃないようにしたい。もちろん、それも大事なんだけど。差別される側は、かわいそうな人になるんじゃなくて、案外、ゲイだとしても楽しくやってますよ、あなたの生きるこの同じ、社会でって言いたい。

・あなたは、分かっている
 社会問題が実在するときに、当事者がどう考えているのかを、語らなければならない。次に、それを聞いた人がどうするか。たぶん単純なコミュニケーションだ。でも、それが大事なんだと思う。差別をなくして、だれもが自分らしく生きていけるようにするには。
 だからといって、今、自分のセクシュアリティーについて、悩んでいる人に、簡単にもう大丈夫だなんていえない。たぶんこの先で、傷つくことが容易に想像がつくからだ。それは、あなただって分かっている。この社会は、僕らが思っているよりも意地悪で、自分とは相容れないものを排除することだってある。

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 僕たちは、自分とは何者なのかを、否応にして考えなければならない。自分が常に優位にたち、我の存在に疑問をもたない人間は、そんなこと考えない。それは、それで幸せな人生だろう。でも、あなたは違う。弱者の立場にたち、いかにして、共存できるかを思考し、多様性を尊重できるかを考えられる人間のはずだ。それは、案外、大きな強みになる。どうか、あなたにふりかかる荒波が、自分を壊してしまわないよう、祈りをこめて。

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自分のこと

レリヴァント、あるいは僕らの出来事

・善意と悪意
 誰かの善意が、この世界を、輝きのあるものにする。もっと優しくなれたら、あの人のように、心からの笑顔を、他人に向けられるようになるのかなんて、考えてしまう。「ありがとう」という言葉が持つ力は、普遍的にまぶしい。人と人とが織りなす風景が、無限に輝き続ければいい。親切が、空虚にすり替えられるとき、世界は、音もなく、消え去ってしまうだろう。
 どうやら、悪意というものは、共感が共感をうみ、もとあったものからは、想像できないくらいに、増幅していくようだ。この社会に、渦巻く憎しみという感情の行き場は、必然的に弱者に向けられる。インターネット上で飛び交う罵声を鵜呑みにするやつは、馬鹿だと言わんばかりに、過ちをおかした人間に、大きな声で正義を語る。まるで、あなたは、生きる価値がないと諭すように。

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・アイロニー
 高校生の僕は、なんというか不健全だった。健やかな心持ちになるなんてことは、たぶん1年で3回くらいだったし、夜になるたびに、ベッドにくるまっては、希望のない明日がくることを恐れていた。未来なんて、いらないと思ってた。親への感謝なんてものは、微塵もなく、繰り返す日々を、ただ惰性で生きていた。たった一人で、言葉にはできないむず痒い感情と向き合っては、少しでも世界がよくなるように祈っていた。ありったけの皮肉を込めて。

・孤独
 今も思うけど、僕は誰に思いを打ち明けるべきだったんだろう。同性愛を自覚し始めた頃の特有の孤独感を、どう説明したらいいか、僕には皆目、検討がつかない。思春期の不安定な自我を抱え込み、大人への道を進むときに、周りに理解者がいない心細さは、荒野に置き去りにされた子犬のように、ただ震えることくらいしかできない無力さを浮き彫りにする。涙を流すことで救われる毎日にすがる僕は、本当に惨めだった。

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 人は、レリヴァント(意味的な関連があるか)な情報や言葉に、心惹かれる。自分のことを分かってくれているなという文章は、その人の心に残りやすい。世の中に溢れるキャッチコピーも、観る人にとって、共感を生み出そうという意図が見え隠れする。ただ、当時ゲイである僕に向けられている情報は、あまりにも乏しかった。同じセクシュアリティの友達を探す方法なんて分からなかった。恋愛について相談できる相手がいれば、本当に生きやすかったと思う。残念ながら、僕らの人生にふりかかる出来事は、楽しいことばかりではない。絶望の淵で生きているかもしれないあなたに、ここに綴る言葉が届けばいい。そう願っている。

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自分のこと

メランコリックな感情と、ディセンシーの問題

 世界は、難解な言葉づかいで、満ちている。空想のなかで、乱反射する言葉たちと光と影。その中で、僕に理解できる言語なんて、たかが知れている。心に猛烈に響く言葉は、春の風とともに、胸の奥底に吸収されていくみたいだ。いつかは、誰もがみな消えていくならば、ここに存在する魂と、愛に似た青いメランコリックな感情は、無意味にさえ思う。親にたいする敬意や尊敬を忘れてしまうほど僕は、愚かではないと胸に焼き付け、今日を生きる。

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・姑息
 バイ・セクシュアリティーというのを、説明するのに、ひどく苦労する。そもそも、僕がバイなのかさえ、あんまりよく分かってないのに。男好きの男ですというよりも、ほんとは女の子も好きなんだけどという予防線をはって、すこしは、みんなと共有できる部分があることを強調したい僕の姑息な計算が、そこにはある。それって浅はかだし、惨めだし、いったい、何にたいして体裁を整えてるのかさえ、分からなくなる。

・ニーチェの言葉
 でも、今の僕には分かる。そんなことにこだわる必要なんて、どこにもないのだ。相手が僕のことを知って、僕が相手について質問する。そのかけあいのなかで、相互理解に達する最短距離を、導き出していけばいい。僕は、こんな人間なんですと、一言で言い表せれば、どんなに楽だろうか。同性愛者だというレッテルを貼られることに、恐れを抱いてはいけない。「最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬこと」と、ニーチェは語る。

・命の灯火
 ひとさまの恋愛に、興味はなくても、コミュニケーションを継続していく上で、相手に自分の話をしなければいけない状況に置かれる時がある。それは、とても窮屈なんだけど。そんなときにいつも困惑するのだけど、最近は、正直に全部話すのがいいと思い当たった。僕は今、男性とお付き合いしていると、話すことにしている。それが、後ろ指をさされようと、構わない。白い目で見られても、気にしない。それなりに年を重ねた僕は、前よりかは、大人になった。強さとも言える人生においての教訓は、まだ一人で思い悩む彼、彼女たちに届くと願っている。消えかけた命の灯火を、葬ってはいけない。

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 いわゆる、ディセンシーの問題だ。なにが、人と人を結ぶのか。シンプルだけど、難解な問いかけは、今日も、夕日に照らされた赤子の頬の柔らかさに、呑み込まれていく。僕の、綴る文章に意味なんてない。ただ、一筋の炎が、辺りをまんべんなく灯し続けるから、その幻が消えないように、ひたすら祈り続けているのだ。

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自分のこと

画餅に帰す

 夕日の映える横顔が、綺麗だと、相手に伝えたいと思った。だけど、会話の話題が、次々と変わる君の話し方に、合わせているうちに、僕は、もう、そんなことは、忘れさっていた。でも、それで、別に構わない。もし、本当に君の横顔が、美しいと口にしたところで、少しの間、沈黙が続いたあと、「ありがとう」といって、照れるのだろう。2人の関係性が、継続されるなら、機会は、いくらでもある。ただ、今回は、タイミングが悪かっただけなのだ。気持ちを、口にするのって、そんなもんなんだと思う。

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・虚しさ
 決して、恋愛が得意な方ではない。相手に素直に、気持ちを伝えるのって、気恥ずかしい。常に、相手が欲しい訳でもないから、一人でも、別にかまわない。むしろ、一人が気が楽だし、それはそれで、楽しいこともある。ただ、胸の奥にある孤独が、なぜか、虚しさの衝動を連れてくる。そんな感情を抱いて、生きるのは、悲しい。

・まず、すべきこと
 高校生のとき、インターネットカフェのパソコンで、「同性愛」というワードを、どきどきしながら、検索したことを覚えている。そのとき、行きついたサイトからは、中東あたりの国(何処かは忘れたんだけど)で、ゲイの青年が、絞首刑にされる動画が流れてきた。それを観て、人知れず涙を流した僕は、まだ幼かった。今は、よりインターネットの普及が進み、僕が観た悲観的な情報だけでなく、しっかりとした、学術的な知見に基づいた知識を、得ることができるようになっている(ように願いたい)。もし、LGBTの当事者として、語ることがあるとするならば、ゲイ・セクシャリティーを自覚し始める年頃の子に、メッセージを送ることが、先決だと、僕は思う。

・声明
 差別や偏見にまみれた、傲慢な考えをすり抜けて、必死に、生き抜いている大人がいることを、話さなければならない。そして、気の合うパートナーができたり、愛撫を重ねたセックスをするようになることを、教えなければならない。もちろん、それが、好奇な目で見られることが想像できようとも、したたかに、愛を確かめなければならない。それが、人生は、生温いことばかりじゃないことを知っている、あなたに送る、声明である。

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 マイノリティーを含む全ての人々の人権の尊重は、ぼくらの基本理念であったはずだ。でも、それは、画餅に帰している。世界を取り囲もうとしている、拝外主義の波は、いつも少数者を、痛めつけることになる。それをしらず、のうのうと、さも自分が、まったくもって正しいと、無知をさらけ出す横柄な言論は、控えるべきだ。僕は、そう思う。

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欲望に花を見つけよ

 試験の問題には、必ず答えがあるし、迷路には、出口がある。でも、人生や、世界も、同じだという保証は、どこにもない。途方もない貧しさのなかで、明日を生きることも困難なとき、迫られる選択肢に、正解なんて、あるのだろうか。豊かな国に、密入国するとか、犯罪に手をそめるみたいな、全てが、間違った解答であるかもしれない。でも、恵まれた人生を歩んできた人には、分からないんだろうけど、現実なんて、そんなもんだ。神様が、いまいがいてようが、人生が、バッドエンドに向かうことが分かっていても、前に進むために、悪に、そまることを、余儀なくされた人たちがいるということを、僕らは、理解すべきなんだろう。

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・オプション
 同性愛のことで悩んでいた当時、僕は、何か前世で悪いことをしたから、今が、こんなに苦しいんだと、真面目に、考えていた。今はというと、神様は、やっかいなオプションをつけてくれたもんだという、くらいになった。たぶん、つぎに生まれてくる時も、ゲイでありたいと言えれば、もっといいんだけど、まだ、そこまでは、いっていない。同性愛は、どうせ奇妙な趣味でしょという偏見があるかもしれないけど、実際は、違うことが、学術的な研究で、明らかになりつつある。性的志向は、うまれつきのもので、わざわざ、選択しているわけではない。

・自由への憧れ
 そもそも、先天的なものなのか、あるいは選択できるものなのかという問いかけ自体に、意味はない。セクシャリティは、もっと自由でいいし、人生を豊かにする要素になる可能性を秘めていることを、忘れてはいけない。けっして、少数者が抑圧されて差別されても、黙って見過ごさないといけないような空気感を、よしとしてはいけない。

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 欲望は、醜い。ときに嫉妬にかわり、怒りにかわる。でもだからこそ、下劣な欲望に、花をみつけよう。くだらない妄想も、尽きることない幻想も、全て受け入れることが、過去を見直すことにつながる。どっちみち、この不衛生な世界を、たった一人で生きていくのだから。はじめから、整備された道があると思うことが、そもそも錯覚だ。人生は、荒れ狂う荒野だ。

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僕の中に内在化する死者たち

 それは、予告することなく、突然にやってくる。仕方なく、ドアをあけて迎える。きっと、そうだ。絶望を追い返すことなど、誰にもできないのだ。
 「死は、悲しいことではないのよ」という一節に、なんとなく、気が楽になる。死ぬ前と後では、ただ、魂の在り方が違うのだ。亡くなった後も、死者たちは、人の心に、存在し続ける。ときに生前よりも、もっと深く、濃く、そして大胆に。ふいに、それは、もう僕の中に内在化してしまったのだと気付く。まるで初めから、そこにあるみたいに。決して、他者からの問いかけによって、触発されてできたものではないという考えが、確信に変わる。

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・父について
 父について、語ろうと思う。思春期の僕は、きっと誰しもが通る道だけど、親に対して、素直に、接することができなくて、いつだって、素っ気ない態度だった。もちろん、僕は僕で、同性愛のことで、少なからず悩んでいたし、それで、手一杯だったというのは、言い訳だろうか。
 僕が、男の子を好きなんだと、打ち明けたとき、父は、戸惑っているようだけど、なんとか理解しようとしてくれた。よく面白い漫画を見つけては、息子である僕に勧めてくれたんだけど、ある日、彼が買ってきた漫画は、性同一性障害をテーマにしたものだった。それとは、違うんだけどなと、心の中で思いつつ、でも、なんとか歩み寄ろうとしている姿勢が、嬉しかった。

・性的欲望
 もし、彼が「私は正しい」という信念をまげず、かたくなに、心を閉ざしていたなら、それこそ、僕の居場所は、なくなってしまっていただろう。いつだって、正しさの中には、善かれ悪しかれ、暴力性を、備えているということはだけは、確実である。いつも欲望が、自分自身の内奥を、形成しているような気がする。でも、性的欲望は、隠さねばならぬものだから、みんな打ち明けようとはしない。

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 きれいにトイレを、使用してくださいだとか、ゴミは分別しましょうとか、とにかく、世の中は、どこもかしこも、メッセージで溢れているので、少し、うんざりしてしまう。それは、僕に語りかけているようで、同時にその他大勢に、向けられている。はたして、そのメッセージを、深く心に刻むことは、可能だろうか。
 入り口も出口もない人生というものに、途方に暮れる。だけど、父が死んだ夏の、薄暗くなり始めた夜空を、忘れることはできない。この季節は、どうしても、父のことを、思い出さずにはいられない。

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最後の踊り

 自分の死を、みる見方は、個人の問題だ。肉体は滅びても、魂は残るという人もいるし、死んだ後は、何も残らない、ただ、ずっと無が、永遠に続くという人もいる。その答えは、たぶん、これからも、解明されることは、ないと思うんだけど、どちらにしろ、死はうつろな目をして、鳥にも、光にも、人間にも、小石にも、同等にやってくる。
 例えば、スラム街における貧困だとか、LGBTの人権問題なんかは、自分には関係のないことだからと言って、思考停止が、許可される。でも、死については、そうはいかない。だって、野宿する浮浪者も、政治を動かす指導者も、唯一、みんなが平等に、体験することだから。

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・逆
 ゲイだということを、家族に打ち明けるのかを、迷っている。前までは、別に言う必要なんかないやんって、思ってたけど、いつまでも、有耶無耶にできないという、現実が、迫っているのだろう。お前は、どんなやつと付き合っているのとか、いつ、結婚するのとかを話せない関係性は、親しいと言えるのか。職場の仲良しの人には、簡単に言うことができるのに、家族に説明できないって、順序が、逆なのかもしれない。

・社会に、切り込む
 つまらない悩みかもしれないけど、そんなことで、立ち止まって、考えながら生きている人間がいることを、知って欲しい。もし、無知が蔓延る世の中でも、そこまで想像する力を、拡大できたら、この世界は、いささか、生きやすくなるんじゃないだろうか。少数者だからといって、人と変わっているからといって、笑い者にすることが、だれかをひどく傷つけてしまっているということが、たぶん多くある。揶揄することが、すべて悪いとは思わないけど、悪質なものに対して、だれが声を上げるのか、どうやって切りこんでいけるのかが、いま問われている。

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 環境に配慮すべきだという言論が流布されて、長く久しい。感覚としてのエコロジーともいうべき、全体の流れにたいする感受性は、いまも僕のなかに、渦巻いている。持続可能な社会を求める好奇心が、死生観に大きく影響を与えることは、言うまでもない。死は、むしろひとつの存在だ。死は、人間の助言者であり、人が、最後の踊りを踊るとき、死は、そのそばにすわって見届け、踊りが終わりに近づくと、死が方向を示すのだ。

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空に群れをなす鳥たちは 

 みんなが、おのおの、自分の神様が、ほんとうの神様だと言う。けれども、お互い、他の神様を信じる人たちのしたことでも、涙がこぼれる。それから、僕たちは、心がいいとか、わるいとかの議論を始めるだろう。そして、勝負がつかないことを、知る。だって、答えなんて、そうそう、見つかるものじゃないから。

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・初恋
 結局、僕らは、ただの恋愛ごっこを、していたにすぎないのだと、過去を振り返って、思う。いつから、人を好きになったり、相手を、自分のものにしたいという欲求を、持ち始めたのか。たしか、初めて、同級生の男子に、恋心を抱いたのは、16歳だったと、記憶している。彼と一緒にいたいとか、もっと話をしたいと思うのは、ありきたりな、ただの友達としての感情だと、認識していた。けれど、そうではなく、何か分からないけど、もっとエモーショナルな情感だと、確信した瞬間があった。あの頃、僕は若かったというより、幼かった。その気持ちを、整理する術を持ち合わせているはずもない。

・抑圧
 言葉にできない情緒を抱いたまま、日々を過ごしていた。ときに、傷ついて、涙を流したり、どうしようもないくらいしょうもないことで、大声で笑ったり。それを、青春といえば、聞こえはいいけど、当時の僕からすれば、一日一日、生きのびるのが、精一杯だった。同性愛はタブーだという刷り込みは、しっかり、自分に、焼き付いていたし、異性愛を、強制的に押し付ける風潮に、抑圧されていた。

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 空に、きれいな直線を描いて、群れをなして飛ぶ鳥たちは、何かの号令を、かけられているみたい。それと同じように、人間も、良き母になれ、異性愛の望ましい対象となれ、適切な労働者となれって、だれかの要求に、応えるように、生きているようだ。ここ最近、僕らは、個人主義的な文化で生きているけれど、しっかりと権威への服従が、染み付いているのかもしれない。歳を重ねるごとに、強くなる生きづらさと、関係してるのかは、まだ分からない。

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渡り鳥のように

 テレビは、相変わらず、世の中の動きを、鮮明に、映し出している。それを、リビングで眺めながら、黙り込む。たれ流しになっている情報が、どれだけの人の脳に、刷り込まれて、そこから派生した感情は、どこに向かうのだろう。

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・奇妙なこと
 せっかく、過去の記事で、自分のセクシャリティーについて語ったのだから、それについて、何か書こうと思っても、特に、思いつかない。それは、ゲイというアイデンティティーが、僕の、ほんの一部分にすぎないのだということが、分かる。問題は、そうだとしても、なにかしら、書けと迫られる、あるいは、説明することを余儀なくさせる、空気感に、あるのかもしれない。
 そもそも僕は、カミングアウトという言葉が、好きになれない。たいそれた名前をしているけれども、個人的には、そんなことをしなければ、自分について、語れない社会のほうに、問題があるんじゃないかと思っている。だって、わざわざ、あらためて、性的指向について、他人に、語らなければならないって奇妙だし、それが、どれだけ、当事者に、プレッシャーをかけていることを、想像できない世の中なんて、どれだけ、せちがらいんだろうか。

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 人の心と心が、時間の経過に沿って、くっついたり、離れたりするものだというくらいのことは、もちろん、わかる。人の心の動きというのは、習慣や常識や法律では規制できない、どこまでも、流動的なものなのだ。たしかに、人生の一部分を交えた相手が、他のだれかと、付き合うことになることなんて、多々ある。ハッピーエンドの映画の結末のようにならない人生に、辟易したとしても、国境という概念を持たない渡り鳥のように、自由になれる日を、待ちわびながら、眠りにつく。