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自分のこと

最後の踊り

 自分の死を、みる見方は、個人の問題だ。肉体は滅びても、魂は残るという人もいるし、死んだ後は、何も残らない、ただ、ずっと無が、永遠に続くという人もいる。その答えは、たぶん、これからも、解明されることは、ないと思うんだけど、どちらにしろ、死はうつろな目をして、鳥にも、光にも、人間にも、小石にも、同等にやってくる。
 例えば、スラム街における貧困だとか、LGBTの人権問題なんかは、自分には関係のないことだからと言って、思考停止が、許可される。でも、死については、そうはいかない。だって、野宿する浮浪者も、政治を動かす指導者も、唯一、みんなが平等に、体験することだから。

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・逆
 ゲイだということを、家族に打ち明けるのかを、迷っている。前までは、別に言う必要なんかないやんって、思ってたけど、いつまでも、有耶無耶にできないという、現実が、迫っているのだろう。お前は、どんなやつと付き合っているのとか、いつ、結婚するのとかを話せない関係性は、親しいと言えるのか。職場の仲良しの人には、簡単に言うことができるのに、家族に説明できないって、順序が、逆なのかもしれない。

・社会に、切り込む
 つまらない悩みかもしれないけど、そんなことで、立ち止まって、考えながら生きている人間がいることを、知って欲しい。もし、無知が蔓延る世の中でも、そこまで想像する力を、拡大できたら、この世界は、いささか、生きやすくなるんじゃないだろうか。少数者だからといって、人と変わっているからといって、笑い者にすることが、だれかをひどく傷つけてしまっているということが、たぶん多くある。揶揄することが、すべて悪いとは思わないけど、悪質なものに対して、だれが声を上げるのか、どうやって切りこんでいけるのかが、いま問われている。

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 環境に配慮すべきだという言論が流布されて、長く久しい。感覚としてのエコロジーともいうべき、全体の流れにたいする感受性は、いまも僕のなかに、渦巻いている。持続可能な社会を求める好奇心が、死生観に大きく影響を与えることは、言うまでもない。死は、むしろひとつの存在だ。死は、人間の助言者であり、人が、最後の踊りを踊るとき、死は、そのそばにすわって見届け、踊りが終わりに近づくと、死が方向を示すのだ。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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