神の存在を、身近に感じるのは、物語の中だけである。もちろん、ひとつの神話とも言える。僕たちは、それを、信じることもできるし、また、信じないでいることもできる。けれども、神話とは、真理の語られる様式でもある。さまざまな科学的、あるいは非科学的な見地から、真理の影を、つかみとることが、ここでは、問題なのだ。
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・過度な刺激
僕たちが、他者との関係において、かたちづくってきたものとは、個我を、ひとつの牢獄として、切実に体感してしまう、感受性であったはずである。この世界を、感覚しようとするとき、自我の解体の危機に、さらされることが、度々ある。それほどに、目の前に、無限に果てしなく広がる景色は、その中で起きていることを含めて、刺激的すぎるのだ。
・概念化
たとえば、体験することが、あまり新鮮にすぎるとき、それは、人間の自我の安定を、おびやかすので、それを、急いで、自分の教えられてきた言葉で説明してしまう。そうすることで、精神の安定を取り戻そうとする。それを、人は、「概念化する」と呼ぶ。けれど、その行為は、自らの意志とは無関係に、身を切るような鮮度を、幾分か脱色して、経験を、陳腐なものに、変えてしまうのだった。
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「まったくわれわれ、おかしな動物だよ。われわれは心奪われていて、狂気のさなかで自分はまったく正気だと信じているのさ。」このように、インディオの知者は、語る。人間の身を包んでいる言葉のカプセルは、相も変わらず、自我のとりでとして、これまでずっと、機能してきたようだ。その壁を、越えたとき、真に、未知なるものとして、膨張する世界への、扉の風穴を、こじ開けたことになるのかもしれない。
僕は、なにも、死に魅入られているわけではない。そして、何より、生が、持て余され、ひとつひとつの命が、光り輝く世界を愛するものの、一人だ。身体のかなたに、ひろがる、いちめんの生は、今日も、僕の中で、躍動している。