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複雑な、生

 この社会は、うまく働く、頭のいい人を、欲している。そして、人の能力の差異に、規定されて、人の価値が決まる。それが、正しいとされていて、これまでずっと、社会の核として、存在してきたと考える。そのことについて、文句を言いたいから、ここに文章を記すことにする。

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・差別の程度
 人は、理由なく、頭が悪かったり、体が悪かったりする。それで、低い評価を受ける。その人に、落度が、あるわけではない。ただ、仕事ができる人より、できないだけである。そのことで、不利に扱われる場合が、多くあるのだけれど、程度の差は、あるのにしても、ひとつの、差別といえる。差別は、いけないから、なくそうということになる。

・基準の言語化
 けれど、私達は、日々、選別し、排除する。平然とされる行為だが、中には、悩んでしまう人もいるだろう。よい/わるいの微妙な問題で、あるけれども、なんらかの基準が、存在するから、微妙だと思うはずである。その基準を、言語化することが、必要だと思う。

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 能力、適性に応じた職業につくこと、能力に応じた生活をするのが、当然であるという主張が、誰からも、否定されることなく叫ばれる。けれど、私達は、もっと、複雑な生を、生きてはいないか。
 役にたたない人間を嫌うのは、社会なのだが、社会とは、私達のことだ。つまり、これは、私達の問題である。このようにして、問いは、自らに返ってくる。能力のあるものとないものが、共生する道を、探すことが、これからの課題なのだ。

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希望詐欺

 これまで、僕たちは、犯罪と、貧困を、世界の脅威と、認識してきた。それらから、社会を守るために、手段を、講じてきたのである。ときに、犯罪と貧困が、増加していくのは、劣った遺伝子を持つ人々が、多くいるからだと、考えられた時代も、あった。階級間での、知能の差異が、取り沙汰されたのである。

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・ジェノサイド、あるいは忘却の彼方へ
 歴史を振り返ってみれば、人間は、数多くの、残酷なことを、してきたのではないだろうか。戦時中において、多くいれば、社会が、進歩する妨げになるとして、障害者の安楽死が、行われたり、特定の人種を、抹殺しようとしてきたのだ。
 それらの行いが、悪であるのは、言うまでもない。けれど、問題がある/ないという境界は、曖昧なままで、もし、殺人が、行われないとしても、その時代の悪を、引きずっているのであれば、その行いを隠そうとする。少なくとも、繋がりのありそうな行いを、控えようとする。表に出さないようにする。
 こうして、空白の時間の中で、戦時中の行いが、忘却の彼方へ、消え去ってしまうのではないのだろうか。どこまでが、自明な悪なのか、はっきりさせ、検証していくことは、必要だと思う。

・多様性、あるいは文句を言う
 人種や、性別によって、就労の機会が、平等でなくなるのは、よくない。一部の人間を、排除することによって、社会を、円滑に、進めようとする考え方も、おかしい。現代において、「多様性」の重要性が、叫ばれるのにも、そこに、意味があると思う。
 実際は、一人残らず、誰もが、現状に、満足しているのだろうか。環境によって、左右され、可能性が、狭められていることはないのか。誰かが決めた基準によって、能力が低いと、評価され、就労の機会を、失っている人は、いないのか。宗教や、人種によって、差別されている人は、いないのか。そうだとしたら、なぜ、誰も、文句を言わないのだろう。

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 たしかに、開始点においては、未来は、可能性に満ちている。けれど、同時に、あらかじめ、その可能性を、本人は、知り尽くすことはできない。どれだけ、努力すれば、どれだけの見返りが、あるのか、全く分からない。やればできるかもしれないという希望が、利用されているのである。
 けれど実際、努力すれば、いくらかは報われることを、知っているし、もっと言えば、自分の努力で、どうにもならない部分が、あることも知っている。葛藤を抱えたまま、すべては、個人の責任になって、返ってくる。これは、かなり、巧妙な、社会の仕掛けみたいだ。 

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無意識の、排除

 たしかに、人の労働や、自然にあるエネルギーなどの資源は、限られている。それを、効率的に、配分することを、よしとする考えかたを、否定するのではない。重要なのは、生産しない人を、切り捨てなければならないほど、資源が、欠乏しているのかということである。

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・人権の意味
 あらゆる人の、生存を、認めることに、他人が関わることは、どんな社会においても、一定の負担を、強いることになる。一方で、負担を、取り払おうと、決定することを、剥奪された人達がいたことは、事実である。だから、人権という言葉によって、個人の、生存する権利が、主張されたのだ。

・切迫
 よいものに、高い値段をつけ、悪いものは、安く、買いたたくことによって、消費者を、優位に、立たせるこのやり方は、金持ちは、よいものを提供されるが、貧乏人は、価値の低いものしか、手に入れられないということでもある。例えば、医療現場において、お金のあるなしで、生死が、左右されてしまうかもしれないし、まちがいなく、これから、そういった社会が、形成されつつある。
 それでは、まずいのだとして、社会的に、負担することにしても、少子高齢化が進み、医療費の増大が、問題になっている現代日本において、限界が、近づいているのは、否めない。

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 社会的に、排除されている人の権利を、奪う行為は、常に、無意識に、起こっている。声を出せず、人知れず、援助もなく、一人でひっそりと、死んでいった人がいる今の状況を、僕は、危惧している。

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他者と、向き合う

 自分では、制御できない、他者の存在を、明確に感じるとき、安心することがある。この世界には、僕一人だけじゃなかったんだと、認識することができるからだ。そんな他者を、できる限り尊重しようと、社会は、動いている。けれども、ときに不条理な暴力が生まれ、ときには、終わらない戦争によって、いくつもの命が失われる。そこには大切な、かつ、重大な視点が、失われているのではないかと、漠然と感じている。

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・自己決定
 死への考えは、様々な議論を、巻き起こす。人の欲望のあり様は、自分とは、違うものとして、ありうるのだから、人が、自ら、死を選ぶことの全てを、止めはしない。決断を、誰からも、関与されずに、実行できるのは、確かに、いいのかもしれない。けれど、それを、全面的に、肯定できない、あるいは、心の中に、わだかまりを感じることが、自己決定における、議論の中心なのだ。

・理解とは
 わかり合うことによって、問題が解決され、人が、仲良くやっていけるような、社会を、構成しようとすることを、正解とすることが、本当に、正しいのか。あなたを、全面的に、理解することは、不可能だし、そのような関係が、社会のすみずみを、覆うことなどないという、立場がある。そもそも、本当に、わかるとは、どういうことか。それを、語ることができないのである。
 わかり合い、自分と、他者が、同じことであるという解釈は、ときに、他者を、傷つけることと、同じ意味をもつ。もし、本当に、同じであることがわかるなら、人々は、もっと、幸福になれるのか。それも、わからないままである。

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 実は、他者を、意のままにすることを、欲望しているだけなのかもしれない。たとえ、そうだとしても、この欲望を、消すことは、無理だと思う。けれど、何らかの、答えを、必要としているのは、間違いない。境界を、引くことが、できないからこそ、混乱が、生じているのだと、僕は考えている。

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自由は、何も語らない

 

 「市場経済」への賞賛も、有利さに対する賞賛なのであって、正義の証明ではない。有利であることは、正しいことと同じではないとすれば、何が正しいことなのかという問いが残る。それは、現代を生きる僕たちの課題なのだと思う。

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・神様の不在
 彼自身の身体は、彼のものとする。身体そのものは、神様が、自分のものとして、与えてくれるのかもしれない。そうなると、彼の身体の労働、彼の手の動きは、まさしく、彼のものであると言ってよい。けれど、神様がいないとどうなるか。話は、複雑になり、身体の所有さえも、根拠づける必要がでてくる。

・原理の危うさ 
 けれど、そういった類いの理論は、人間の特権性を、前提に語られている。世界中のものが、人間のものとして、あらかじめ、与えられていなければならない。キリスト教的な世界観のもとでは、自然なことかもしれない。しかし、宗教を信じない人へは、どのように、説得すればよいのか。もちろん原理も、最終的には、それ以上、根拠づけられないような場所に、出てしまう。私達は、ただ、原理を、正しいものとして、承認するのである。問題は、本当に、それを、受け入れていいのかということである。

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 結局のところ、「自分が作ったものは、自分のものにしたい」ということを、言っているにすぎない。そこには、「自由」という価値が、あるではないかという人がいる。たしかに、自らのあり方が、他者から、干渉されないことは、よいことなのかもしれない。でも、決して、誰が、財を、所有するべきかを、説明しようとはしない。自由は、何も語ってくれないのだ。

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昼と夜

 自分は、何者で、どこから来たのかという問いに、立ち向かうには、少し体力が、足りないようだ。疲れたときには、何が、自分のものとされるのかという、命題に立ち返るのがいいのかもしれない。それは、できるかぎり、具体的な答えに、辿り着く近道にもなりうる。

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・所有 
 所有という概念には、様々な矛盾が、含まれている。何によって、それは、正当化されるのか。あるいは、それによって、何ができ、何を拒否できるのか。生まれてきた生命は、皆平等だという。しかし、実際には区別している。問題は、なぜ境界を、設定するのかにある。
 世界には、数多くの主張、思想が存在する。けれども、結局、いろいろやってみて分かったように、「市場経済」で行くしかないのだし、行くのがよいのだろう。大きい格差が、生まれれば福祉を充実して、何か手を打てばいい。それで、平穏無事に、終わる。しかし、それを、なにごともなく、受け入れていいのか。

・近代化
 「能力主義」に、反対しているのではない。価値のあるものには、相応のお金が、支払われるのが良いと思う。あるいは、年齢、性、人種、家柄等の個人の能力や、努力によって変えられない生まれに、基づいて、評価し処遇する「属性原理」など、まっぴらごめんだ。「属性原理」から「能力主義」への移行を、私達は、近代化と呼ぶ。
 実際はどうか。どのようにして、人の地位は、決まっていくのか。本当のところは分からない。「能力主義」と「属性原理」の、どちらかが優越しているのか、あるいは、決まっているとしたら、どのような理論で成り立っているのか。どれも、あいまいなことだらけである。でも、それがいま、僕たちが、暮らしている社会なのだ。

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 難しい話をしても、世界が、よくなる気配は、いっこうにない。そういうときは、どうしても、小説を、読みふけりたくなる。人は、貧弱な真実より、華麗な虚偽を、愛するのだ。優れた知性とは、二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を、充分に、発揮していくことができるといったものである。けれど、たとえ、どんなに卓越した理性を、揃えたとしても、昼の光から、夜の闇の深さを、表現することはできない。

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これからの、行き先

 上の世代の人のように、戦争の混乱を、体験していない。世界史で、学んだような革命も、知らない。目に見えるような、圧倒的な、偏見に、さらされるようなこともなかった。平凡な家庭で、すごく不自由したように、育ったわけでもない。そんな僕が、表現しようと試みるときに、うまれるものはどんなだろう。もしくは、想像をかきたてる、きっかけは、何だろう。それは、いつの時代にも変わらず存在する、人と人をつなぎ合わせる、魂のいちばん奥底に、眠っているのかもしれません。

 高度経済成長が、過去のものとなり、社会の勢いが失われ、閉塞感が、いろんなところで、うまれてきた。その中で、これまでと、同じように、事を進めようとする、頭のかたい方法は、個人の逃げ場を、失わせる方向に、進む。「効率」という言葉によって、抹殺される、声にならない声を、すくいあげる作業こそ、今の時代に、必要なことだと思う。なぜなら、僕らの、これからの行き先は、一つの視野では捉えられないものになる可能性を、秘めているからだ。

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秘密の読書

 こどもの頃に、とても、お世話になったはずなのに、そんなことを忘れて、ひとりで、大人になったように、振る舞う自分が、嫌いだ。幼いときの記憶を、忘れてくのは、とても切ない。でも、時の流れは、大人になることを、止めようとはしない。けれど、どんなに多くの知識を学んでも、大人になる速さを、加速させることはない。

 本を読んで、物語のなかに身を置き、日常とは離れた、どこか違う世界に、連れて行ってくれるような、感覚が好きだ。いつも、どこかで、それを、期待している。一度、本を読む楽しさを、覚えると、強制的に、本を読むことを、止められても、どこかの森に、本を隠して、見つからないように、読書を楽しむ人が、集うだろう。本当に、不思議なことに、人は逆らえない。

 小さいとき、業績や、数字ばかりに、とらわれる大人を、不思議がっていた。夜の空に、浮かぶ星を見上げては、どこか、違う場所で、もう一人の自分が、なにげない顔をして、生活していると思っていた。今の年齢になって、そんなことを考えるのは滅法、減った。やっぱ大人になるって、なんか切ない。

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別れ

 みんなが、自分を、主人公にした、物語の中を、歩いている。街では、お互い知らない者同士が、そしらぬ顔で、それぞれの、目的地に向かって、進んでいく。けれども、人は、ときに、受け入れ合い、強い絆を結ぶときがある。それは、生まれる前から、決まっていたように、自然と発生するようなもので、運命めいたものを感じる。

 それでも、別れは、いずれやってくる。別れは、今まで、知らなかった、大事なことを、気づかせてくれる。隣にいてくれることが、当たり前だった人の、ありがたみや、その価値、貴重さを悟る時期がくる。すべてが、時の流れに、消えてしまったわけじゃない。

 時々、心の一部分が、欠けてしまったような感覚に、陥るときがある。頭のねじが、一本はずれたみたいに、上手く機能しない。すべてのことに、無関心になる。そんなときは、思い出す。あのころは、何かを、強く信じていたし、何かを、強く信じることのできる、自分を持っていたことを。そんな思いが、そのままどこかに、虚しく、消えてしまうことはないから。

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日常・コラム・エッセイ

ありのままで

 去年、スペインに、一人で、旅行したときのことを、たまに、思い出す。食べることについて、あれこれ考えるのが、面倒だったので、目についたバルに入り、コーラと、スモークサーモンの乗ったピザを、注文した。見回した限りでは、一人でコーラを飲みながら、黙々と、ピザを食べているのは、僕くらいだった。人々は、大きな声で、賑やかに、語り合っていたが、聞こえてくる言葉は、すべて、スペイン語だった。そのときになって、ようやく、自分が、日本を遠く離れ、外国にいるのだという事実に、思い当たった。そういう状況を、とくに、気にもしなかった。しかし、その時、僕は、ただ一人であるというだけではない。二重の意味で、一人なのだ。僕は、異邦人であり、まわりの人々は、理解のできない言葉で語り合っている。

 それは、日本で、いつも感じているのとは、また、違った種類の、孤立感だった。二重の意味で、一人であることは、あるいは、孤立の二重否定に、つながるのかもしれない。異邦人である僕が、孤立していることは、完全に理にかなっている。そこには、何の不思議もない。自分は、まさに、正しい場所にいることになる。

 どんな言語で、説明するのも、むずかしすぎるというものごとが、私達の人生には、ある。他人に、説明するだけではない。自分に説明するのだって、それは、やはりむずかしすぎる。無理に、説明しようとすると、どこかで、嘘が生まれる。いずれにせよ、ときが経てば、いろんなことが、今より明らかになるはずだ。それを、待てばいい。自分は、自分のままで、生きていけばいいのだ。