カテゴリー
思考

自由は、何も語らない

 

 「市場経済」への賞賛も、有利さに対する賞賛なのであって、正義の証明ではない。有利であることは、正しいことと同じではないとすれば、何が正しいことなのかという問いが残る。それは、現代を生きる僕たちの課題なのだと思う。

       ★    ★    ★

・神様の不在
 彼自身の身体は、彼のものとする。身体そのものは、神様が、自分のものとして、与えてくれるのかもしれない。そうなると、彼の身体の労働、彼の手の動きは、まさしく、彼のものであると言ってよい。けれど、神様がいないとどうなるか。話は、複雑になり、身体の所有さえも、根拠づける必要がでてくる。

・原理の危うさ 
 けれど、そういった類いの理論は、人間の特権性を、前提に語られている。世界中のものが、人間のものとして、あらかじめ、与えられていなければならない。キリスト教的な世界観のもとでは、自然なことかもしれない。しかし、宗教を信じない人へは、どのように、説得すればよいのか。もちろん原理も、最終的には、それ以上、根拠づけられないような場所に、出てしまう。私達は、ただ、原理を、正しいものとして、承認するのである。問題は、本当に、それを、受け入れていいのかということである。

     ★      ★      ★

 結局のところ、「自分が作ったものは、自分のものにしたい」ということを、言っているにすぎない。そこには、「自由」という価値が、あるではないかという人がいる。たしかに、自らのあり方が、他者から、干渉されないことは、よいことなのかもしれない。でも、決して、誰が、財を、所有するべきかを、説明しようとはしない。自由は、何も語ってくれないのだ。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です