私は、非正規労働者だ。あるいは、同性愛者だ。いろいろなアイデンティティが、僕を、浸食していく。何層にも重なって、存在する個人の属性を、一つずつはがしていった、その先に残る自分は、はたして、何者なんだろう。もう、本当の自分を探すのは、やめにしないかと、誰かが、語りかけてくる。でも、そうしないと、安心して、夜を過ごせないんだと、僕は、答えるだろう。
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・悲劇を乗り越える
言葉や暴力や妄想が、ときに、暴発する。猛毒となって、関係のない民衆に、ふりかかったとして、それを、何事もなく、受け入れることは、可能だろうか。争いが、争いをうみ、多くの血痕を、残してきた歴史を、振り返れば、答えは、自然に、湧き出てくる。ときに、それこそ、理性と思想と行動のレベルで、僕らの社会は、僕らの個々人の生は、堂々と、ねじ伏せて、なんとしても、越えていかなければならない。不条理という、終わりなき、悲劇を。
・問題提起
市場が、拡大し、労働者になる人たちが多いと、競争のもとで、労賃を、安く抑えることができる。雇う側にとっては、好ましい状況だろう。そして、誰もが知っているグローバリゼーションのもとで、富は、集中していく。仕事ができる人間が、得をすること全てを、否定したいわけじゃない。でも、はじめからハンデのある人や、障害をもって生まれてくる人も、いる。なんの落度もない人が、割を食う社会は、どうなんて思う。
・線引きの暴力
べつに、コミュニケーションをとることも拙い重度の障害者の生にも、意味があるとか、優等生的なことを、言いたい訳じゃない。そういってしまえば、この世界には、意味のある生と、無意味な生があって、命に、乱暴な線引きをしてしまう結果となる。そんな傲慢な態度じゃなくて、もっとわかりやすい言葉で、幅広い年齢層に、伝わるような言葉を、この場では、紡ぎだしたい。そう思ってる。
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「生きづらさ」を抱えた青年が、耐えねばならないことは、常に、のしかかってくる、命の非意味なんじゃないだろうか。誰でも、一度は考えるだろう。なぜ、自分は、生まれてきたのだろう。自分は、このままなにも、成し遂げることなく、無意味に、消えていくんじゃないかという、焦燥感。平等な、対等な、圧倒的な非意味こそ、ここで、発信しなければならないことだと、僕は、思う。