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思考

2000年と、ちょっと

 これまでの歴史のなかで、取り上げなければならないことは、きっと、人間の悪行だろう。どれをとっても、目をつむりたくなるような真実が、みごとに、軒を連ねている。人が人を殺すという、まぎれもなく、悪であると、断定できる行いを、人は、してきたのだ。戦時下という特殊な状況で、人がたくさん死んでいくことに、慣れていく人がいた。それを、「不幸のルーチン化」と、一昔の学者は、いった。

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・無知
 大人になって、初めて触れる歴史的事実が、たくさんある。学生時分に、何を、学んできたのだと、少し、落ち込んでいる。なにしろ、知らないことが、あまりにも、多すぎるのだ。それほどに、いまの社会が成り立っている理由や、経緯が、ややこしすぎるのかもしれない。現実って、いつも、そんなもんなんだろう。線と線が、複雑に絡み合って、しまいには、毛玉くらいの、得体の知れない固形物が、時の経過とともに、出来上がっていく。現代人は、それを顧みようとせず、繰り返し起きている出来事を、さも初めて起きたかのように、リアクションする。なんて、愚かなんだろう。

・許してはいけないこと
 今になって、優生思想、優勢主義について、考えようと思う。それらが意味することは、他人の損得によって、ときに、人を生まれないようにし、ときに、人に、死んでもらおうという考えや行いだと、捉えることができる。もちろん、ひとつの見方として。ナチス・ドイツの民衆の多くが、それを支持して、極めて、民主的なやり方で、ヒトラーが政権についたという事実を、我々は、深く、心に、刻むべきだろう。その裏で、多くの障がい者が、殺害されたことを、当時の人は、知っていたけれど、知らないふりをしながら、ただ、黙り込んだのか。ヒトラーを後ろ押ししたのは、経済を好転させたという功績が、大きいのだけれど、その要因が、迷惑をかける、障がい者を殺して、負担を取り除いたからだというような暴論を、僕らは、決して、許してはいけない。

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 僕が、一番言いたいのは、ただ一つだけで、あなたが、どう感じるかと、生き死には関係ないのだということだ。例えば、精神の病気であろうが、そのひとが将来、犯罪を起こしそうになることが予測されようが、あるいは、周囲に頼り切ることでしか、命の存続が、難しい場合であろうが、彼が、死ななければならない理由には、ならないのだと、僕は、言うことができる。
 西暦を数えだして、もう2000年が、過ぎたのだけれど、その間に、状況は上向いているのだろうか。野蛮なことは、減ったのかもしれない。けれど、生産しない人、できない人への脅威は、消えたのか。日本は、いささか、昔より豊かになり、福祉も拡大しつつある。一方、少子高齢化を迎え、危機感が強まっている感触をもっているのは、僕だけなのか。それを問いたい。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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