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思考

その場から、降りる

 この世界では、負担を、取り除くことに、集約しすぎてはいないだろうか。僕が、高校の頃から感じている、生きづらさの要因は、そこらへんにあると、考えている。 
 一定の負担を、受けいれるなら、社会の存続自体が、不可能な場合は、どうしても、考えなければならないだろう。しかし、この社会は、そんなものではない。例えば、障害を持つことを、許容しないのだとしたら、全てを自分にとって、都合よく、存在させようとしているのではないかと、批判することができる。

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・ひとつの宣誓
 いつも、私達は、「教育」する。人を殺すなとか、友達を、いじめるなといったことを、有無を言わさず、押し付ける。どうか、この社会で、厄介者にならないように、立派な大人になるようにという、願いをこめて。すべての子どもの意向を、尊重してなされるべきだというのは、少し呑気なことだと思うし、今、僕が、ここで言いたいこととは、少し、違う気がする。
 厄介さを、縮小しようとする社会であること自体が、いつまでも、存在する。他人の手を、借りなければならない者を、肯定しない社会は、生きづらいのだと、言えばいい。生存の様式を、異にしていたとしても、息苦しさを、感じない社会を、僕たちが、構築していけるのだと、言うことができるはずである。

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 ただ、自分にとって、不都合を、なくする、都合のいいようにするというのは、私達の生を、一方で、構成している。手の指の数、身長、肥満。結局は、好みによって、他人のあり方を、決定していると、言うしかないような時がある。これに対して、少なくとも、そうしたことに関わる情報を、知る権利はないのだと、いうことはできる。
 逆にいえば、それらの情報を、拒むことも、できるはずだ。そして、選択をしない考え方が、成り立ちうるのではないか。そもそも、障害が、良いか悪いかを、判断するという土俵に、乗る必要が、ないのだし、そんな馬鹿げた場からは、降りればいいのである。不都合と思われるものを、除去することが、そんなに良いことなのか、もう一度、考える時期なのかもしれない。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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