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社会の出来事

相模原障害者施設殺傷事件について(2)

 この事件について、考えていると、なぜか、就職活動で、僕が、行き詰まった理由へと、思考が、流れていった。ここでは、その関連について、述べようと思う。
 就職活動のすえ、結局は、入社する企業を、決定しないまま、学校を卒業することになった。(というか、自分を、雇ってくれる会社が、なかったということなんだけど。)

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・必然性の空白
 まず、企業が、必要性に迫られたサービスを、提供しているのか、疑問に思ったのだ。もちろん、生活に密着して、世の中に、貢献している会社は、いっぱいある。お客様からは、こういったニーズがあって、我が社は、こうやって、需要に応えていますと、もっともらしいことを言う。けれど、説明会で聞いた、情報なり、事実なりが、断片的すぎて、どこまで行っても、イメージというものに、ぶつからなかったのである。少なくとも、その仕事を担う人物が、必ずしも、僕でなければならないという理由が見つかる企業に、出会わなかったのだ。

・名もなき労働者たちへ
 例えば、「家事」という、労働がある。それは、必ず、誰かが、やらなければならず、生活する上で、必須の仕事だ。企業が、全うする労働よりも、必要性は高いかもしれない。けれど、みんなが知っているように、家事の多くを担う、専業主婦に、賃金が、支払われることはない。つまり、仕事の重要度と、賃金の高い安いは、正比例するという考え方が、間違っているということだ。
 家事労働に、賃金が支払われるべきだと、言いたいのではない。実は、その理論そのものが、「給料が高いほど、重要な人間である」という前提を、包有した、罠なのだ。その罠に、かかっている限り、障害者を見下す勤め人は、存在し続けるだろう。エリートと言われる男たちの考えは、この社会を、本当の根幹で支えている、名もなき人々に対する、視点を、欠いているようでならないのだ。

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 結局のところ、役に立つ人間と、役に立たない人間は、区別できるが、価値のある人間と、価値のない人間の境界は、存在しないのだ。だから、障害者だからといって、安楽死を迫られる必要はないし、殺されてもいけない。給料を、もらっていない、また、迷惑しかかけない人間でも、大きな顔をして生きるべきなのだ。そのためにも、粘り強い社会の成熟につながる議論を、継続していくべきだと思う。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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