カテゴリー
心情

誰かが、誰かを傷つけないように

ここ最近の娯楽は、もっぱら公衆浴場での、入浴。
そこで、顔なじみのおっちゃんたちが、交わす言葉が好き。
まさに、それは、中間集団そのもので、ずっと残していかなければならない風情だ。

ネットで飛び交う、誹謗中傷。
それは、べつに無視すればいいし、人間の本性まるだし感があって、憎めない。
ただ、意図的に、個人を攻撃したり、差別するのは、間違っている。

間違っていることにたいして、それは、間違っていると、言うこと。
それくらいのことしか、僕らには、できない。
その人が、その思考に辿り着いた過程を、想像する。
もう少し、時間をかけて、言葉にするまで、吟味することは、できなかったのか。

なにも相手が、どう感じるかに、思いをめぐらすことを、押し付けはしない。
その行為は、容易に達成されるものでは、ないからだ。
いつか、銭湯での世間話みたいな会話を、ネットに再現できる日を願う。
(それは、たぶん、人間のモラルが、上限をこえた時だ。)

カテゴリー
心情

宿命

家族とか、会社とか、学校とか。
個人と、社会を、つなぎあわせるコミュニティー。
それらが、窮屈でしかたなかった、あの頃。
僕は、一人になりたかった。

インターネットの、出現。
新しい共同体に、とってかわろうとしている。
常に、誰かと、つながっている感覚。
だけど、不安なことに、変わりはない。
それは、現代を生きていくことの、宿命か。

移ろいゆく世界で、人間は、何に、救いを求めるようになるんだろう。
本質的な変化を、期待しているのに、同じことを繰り返す。
無限にふくれあがる、情報空間。
共感できる思想には、いいねをし、それ以外を、排除していく。

コロナ禍で、いろいろ思うところが、あるかと思います。
突き詰めて言えば、これから、どうなるかなんて、誰にも分からない。
価値観を、アップデートし続けるために、発信する。
生きづらさを抱える、あなたに向けて。

カテゴリー
映画レビュー

041 「ヒトラーの忘れもの」(2016)

<基本情報>
2015年に、第28回東京国際映画祭コンペティション部門に出品される。
その際の、題名は、「地雷と少年兵」。
戦争の爪痕として、デンマークの海岸に残された地雷。
それを、取り除く使命を課せられたのは、ドイツの少年兵たちだった。
マーチン・ピータ・サンフリト監督が、史実をもとに、過酷な現場の様子を、えぐりだしていく。

 ナチス・ドイツを題材にした作品は、いくつもある。ヒトラー率いる帝国軍が、してきたことを、ここで議論するつもりは、ない。第二次世界大戦後においても、なお、それらの映画が生まれることの、意味や、成り立ち、関係性について、もっと見直されるべきではないか。この物語は、ただ単に、反戦を唱えているわけでなはい。人は、できるだけ、死なない方が、いいだろう。みんなが、そう思っている。だけど、現実は、違う。今日もまた、どこかで、なんの落度もない人間が、不条理に死んでいく。そのリアリティーを、映像を通して伝えていく。

 国家の指令によって、翻弄される、かけがえのない人生。消えていく命。歴史から、見えてくる、人間のなかに内在する暴力性。どれだけの個人の尊厳を奪っていけば、自らの行為を、改めることができるんだろう。映画を鑑賞して、心が和んだり、癒されたりする。そんな体験を望む人に、今作は、おすすめできない。その理由は、観れば分かる。どんな言葉でも、表現できない感情がある。胸が、えぐられるような、感覚を、植え付けてくるという点において、この作品は、他と一線を画している。

 ラスムスン軍曹(ローラン・モラー)は、ナチスに、強い憎しみを持っている。けれど、徐々に、その怒りをぶつける相手について、深く考え込むようになる。その変化していく心情を、見事に演じていく。戦争が終わっても、なお、人間に残していった憎悪。その思いは、これからを、生きていく者への「愛」へと豹変していく。戦争や、餓えを知らない、僕の書く文章が、行き着く先は、どこなんだろう。間違いなく、誰かを傷つけていたし、今も、そうなんだと思う。それを自覚して、記憶に残していく作業が必要なようだ。

カテゴリー
心情

労働とは

働くことの、意味。
時間を、切り売りして、得る賃金。
自分を押し殺して、社会人を演じた、対価。
新しい価値を生み出したことによる、報酬。

労働によって、社会とつながる感覚は、消えそうにない。
結局、自分で稼いだお金で、欲しいものを選択して、購入する楽しみ以上のものがない。
消費社会に、すっかり順応している僕ら。

なんだかんだ言って、食っていくには、金がいる。
その日をやっと暮らしていける。
それで充分じゃないかと思う。
そして、たぶん、何事もなかったかのように、人生は、幕を下ろす。
そんな、生き方が、いい。
(貯蓄によって、得られる精神的な安心を、否定するつもりなはい。)

カテゴリー
映画レビュー

040 「僕と世界の方程式」(2017)

<基本情報>
2014年に、イギリスで公開される。
「リトル・ダンサー」の製作者、デヴィッド・M・トンプソンが手掛けた作品。
「ヒューゴの不思議な発明」「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」の、エイサ・バターフィールドが、主役を演じる。
監督は、様々なドキュメンタリーで、高い評価を受けている、モーガン・マシューズが、務める。

 主人公・ネイサンは、自閉症スペクトラムと診断される。周囲との、コミュニケーションが苦手で、母親との関係も、ぎくしゃくしている。こだわりが強く、素数を愛する彼は、たぐいまれな数学の才能を持ち合わせていた。発達障がいという言葉は、よく知られている。ひとむかし前は、そんな病気にたいする知識を持つ人は、極わずかだった。それが、当事者にとって、息苦しく、周りの理解を得られないのは、身を焦がす思いだったにちがいない。この映画によって、正しく分かっていく。僕らは、物語を通じて、世界を、変えていけるのだ。

 そして、彼は、恋をしていく。そこらじゅうにいる、なにも変わらない青年として。思春期に出会う、淡い初恋は、それまでの、世界の見方を、がらりと変えてしまう。もちろん、悩むこともある。だけど、徐々に、他人との気持ちのぶつかりあいに、歓びを感じていく様子は、観るものに、穏やかで、ほのかな衝動を、思い起こさせる。人生は、にがい出来事で、埋め尽くされていく。その反対に、けっして忘れることのできない感情に、巡りあう。段階的に、自分自身を肯定していく経過を、ハートフルに描く。

 数学の問題には、いつも「答え」がある。方程式を組み立てて、学んだとおりにすれば、いつか正解に辿り着く。けれど、生きていくことに、はっきりとした解は、存在しない。誰しもが、少しでもいいように、あるいは、幸せになりたいと願っているはずなのに、歩む道のりは、違う。だけど、それでいい。ネイサンが、自分の頭で考えて、試行錯誤した末に導いた行動が、間違っているとかの、批評は、無意味だ。ひとつ、いえることは、僕らは、絶えず、変化していく。思考も、考えも、心も。その中で、ほんとうに大事な、かけがえのない宝物を、手にしていく。そんな少年の瞳は、澄み切っていて、美しい。