カテゴリー
映画レビュー

003 「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」(2017)

<基本情報>
詩人・最果タヒの同名詩集をもとに製作された、意欲作品。
監督は「舟を編む」の石井裕也が務める。
ヒロインには、映画初主演となる、石橋静河が抜擢された。
彼女の瑞々しい演技が、様々なシーンで輝きを放つ。
石井監督と相性のいい池松壮亮は、つかみどころのない、風変わりな青年を熱演。
現在、同監督による「町田くんの世界」が、公開中。

 日雇い派遣、孤独死、放射能汚染、外国人労働者などの一見、重々しいテーマを、東京の片隅でひっそりと暮らす男女が、心を通わせていく模様と交えて、描き出していく。2人が、徐々に距離を縮めていく過程が、丁寧に描写されている。ひとつひとつの台詞とともに、彼らが抱える感情や、孤独感、都会で生活する虚無感が、観る人の心にゆっくりと刻み込まれていく。

 「嫌な予感がする」と、劇中で彼らは、何度も確認しあう。いったいそれが何を指すのかは、分からない。震災、死、テロリズム、僕らに降り掛かる災難は、間違いなく、この先にあるのだという予期は、案外、間違っていないのかもしれない。でも、この物語は、悲しいままで終わらない。最後には、希望という、しっかりとした形のなかに、昇華されていく。

 どうして、人は、恋愛をするんだろう。悲しみを紛らわすために、くっついたり、離れたりするのは、本当に愚かだと思う。そんなことを言い出せば、まったくの純真無垢な恋なんて、存在しないとあなたは思うかもしれない。でも、べつにそれでいい。正しさや、清らかさだけを追い求める夢追い人は、きっと、そうじゃない人を、排除していくだろう。僕らの心の中の、真っ黒な感情が、誰かを救うこともある。この世界は、複雑で、それ故に、美しい。そんな気がする。

カテゴリー
映画レビュー

002 「これが私の人生設計」(2016)

 これは、イタリアの物語である。海外の作品って、あんまり肌に合わないという人もいると思う。でも、この映画は、自然と腑に落ちたように、僕の心の隙間を埋めてくれた。とあるゲイ男性が、登場するんだけど、そのキャラクターが憎めない設定で、笑いを誘う。自分が、ゲイだからか分からないけど、同性愛者が描かれる作品に興味が惹かれる。

 たぶん、同性愛に限らず、セクシュアリティが僕の人生に大きく影響しているからだ。映画は、ひとつのフィクションに過ぎない。だけど、そこには間違いなく客観的な風刺が、影を忍ばせる。そこから繰り広げられる思考は、観る人の心を、解きほぐすかのように、安心をもたらす。

 主人公は、優秀な建築家なのだが、男社会で結果を残すことに苦労している彼女のひたむきさは、素直に心をうつ。たぶん、この映画を売り出そうとしてターゲットを決めるなら、おなじ悩みをもつキャリア女性になるんだけど、僕は、男性にも観て欲しいと思う。ある意味、女性が活躍できない社会は、反作用として、男らしさの呪縛を背負うことになる。男性が、泣き言をいえば女々しいと言われる社会は、生きにくいと、はっきり語らなければならない。性差別に、立ち向かわなければならないのは、なにも、女性だけではないのだから。

 集合住宅で暮らす少年、少女たちの目の輝きが、印象的だ。再開発案を練る主人公との交流が、微笑ましく描かれている。人が、営みのなかで、あるいは大人になっていく過程で、なにが必要なのかを、浮き彫りにしていく。生きにくいのは、あなたにも責任があるという言論に感化されないストーリーがある。他人のために、誇りをもって一生懸命になる姿に、勇気づけられるのは、間違いない。

カテゴリー
自分のこと

レリヴァント、あるいは僕らの出来事

・善意と悪意
 誰かの善意が、この世界を、輝きのあるものにする。もっと優しくなれたら、あの人のように、心からの笑顔を、他人に向けられるようになるのかなんて、考えてしまう。「ありがとう」という言葉が持つ力は、普遍的にまぶしい。人と人とが織りなす風景が、無限に輝き続ければいい。親切が、空虚にすり替えられるとき、世界は、音もなく、消え去ってしまうだろう。
 どうやら、悪意というものは、共感が共感をうみ、もとあったものからは、想像できないくらいに、増幅していくようだ。この社会に、渦巻く憎しみという感情の行き場は、必然的に弱者に向けられる。インターネット上で飛び交う罵声を鵜呑みにするやつは、馬鹿だと言わんばかりに、過ちをおかした人間に、大きな声で正義を語る。まるで、あなたは、生きる価値がないと諭すように。

   ★    ★    ★

・アイロニー
 高校生の僕は、なんというか不健全だった。健やかな心持ちになるなんてことは、たぶん1年で3回くらいだったし、夜になるたびに、ベッドにくるまっては、希望のない明日がくることを恐れていた。未来なんて、いらないと思ってた。親への感謝なんてものは、微塵もなく、繰り返す日々を、ただ惰性で生きていた。たった一人で、言葉にはできないむず痒い感情と向き合っては、少しでも世界がよくなるように祈っていた。ありったけの皮肉を込めて。

・孤独
 今も思うけど、僕は誰に思いを打ち明けるべきだったんだろう。同性愛を自覚し始めた頃の特有の孤独感を、どう説明したらいいか、僕には皆目、検討がつかない。思春期の不安定な自我を抱え込み、大人への道を進むときに、周りに理解者がいない心細さは、荒野に置き去りにされた子犬のように、ただ震えることくらいしかできない無力さを浮き彫りにする。涙を流すことで救われる毎日にすがる僕は、本当に惨めだった。

   ★     ★     ★ 

 人は、レリヴァント(意味的な関連があるか)な情報や言葉に、心惹かれる。自分のことを分かってくれているなという文章は、その人の心に残りやすい。世の中に溢れるキャッチコピーも、観る人にとって、共感を生み出そうという意図が見え隠れする。ただ、当時ゲイである僕に向けられている情報は、あまりにも乏しかった。同じセクシュアリティの友達を探す方法なんて分からなかった。恋愛について相談できる相手がいれば、本当に生きやすかったと思う。残念ながら、僕らの人生にふりかかる出来事は、楽しいことばかりではない。絶望の淵で生きているかもしれないあなたに、ここに綴る言葉が届けばいい。そう願っている。

カテゴリー
映画レビュー

001 「パーマネント野ばら」(2010)

 例えば、女の子がうずくまって泣いている。少女から大人へと変化する時期の、彼女たちの憂鬱を、僕は、思い知ることはできない。およばぬ場面で、性的な対象として、見られることだって、遭ったかもしれない。ここで、フェミニズムについて、語ろうとは思っていない。ただ、女性の人生において、自分たちの力では、どうすることもできない苦難がある。それに、立ち向かわなければならないことを想像できない社会は、いささか生きにくいのではないか。

 なぜ、涙を流しているのと聞くこと自体、ナンセンスだ。社会で渦巻く憎悪や嫉妬や偏見が、思いもよらず、個人を傷つけてしまう場合がある。言葉にできない思いについて、語らなければ、その傷跡さえ、なきものにされてしまう現状を、変える手だてはあるはずだ。だから、だれかが声をあげるべきなんだと思う。それが、映画としての表現だっだとしても。

 この物語は、海辺の街で営まれる美容室が、舞台となっている。そこに集まる女性たちの恋愛は、決して綺麗ごとだけでは語れない人間味で溢れている。本当の意味での他人を愛するという醜さだったり、愚かさを、細かく描写し、観る人にとって、不思議な共感をうむ。誰かを思い続けなければ、正常を保っていられない彼女は、きっとまた、強くなれる。それを、証明してくれる映画であることは、間違いない。

 まず、邦画と洋画という区別がある。どちらを好むかは、それぞれだ。初めてのレビューで、どの作品にしようか、迷ったんだけど、やっぱり好きな映画にしようと思い、この作品にしました。洋画で観るような、派手なアクションだったり、壮大なスケールの世界観ではないけど、邦画にも優れた力作があるんだと、知って欲しいです。

カテゴリー
映画レビュー

映画について、語ることがあるとするならば

 新しい風に、手をかざす。少しだけ、先が見える。心につながる道を通り過ぎる旅人は、いつか歩みを止める。そんなときに出会う言葉は、ありふれたものかもしれないけど、まっすぐ、響くに違いない。

・僕が何にお金を使ったのかという話
 率直にいって、映画が好きなのである。一時期、休みの日になるたびに、一人で映画館に足しげく通っていた。一日に2本だったり、立て続けに鑑賞したりしていたもんだから、順調に、お金は飛んでいった。なぜ、そんなことをしていたのだろうと今になって考えても、分からない。ただ、感情を揺さぶる形としての、なにかしらインプットされる物が、僕には必要だったのかもしれない。それは、屈折した感情のはけ口を探してさまよう、子羊のようだ。不安定な価値でさえ、認めることを許さない社会について、もの言いたげにして表現をする映画が、僕に生きる希望を与えてくれた。
 もし、映画について語ることがあるとするならば、僕は間違いなく、愛の風景を構築しようとする表現者の結晶について話すだろう。時代背景、社会的要因、ストーリー、登場人物、台詞、どれも映画を構成するものとしては、欠かせない。全てが歯車のようにかみ合ったときに起こす作用は、僕たちが生きる根源に、しっくりと影響を及ぼす。

・原体験
 ひとつ、具体的な作品を挙げたい。初めて映画をみた体験として覚えているのが、「猿の惑星」なのである。幼少期に、たまたまテレビで放映されているのを観たんだけど、最期の「自由の女神像」を発見するシーンに、衝撃を受けたのを記憶している。ここで、あらすじは説明しないけど、終盤で物語が、点と点を結ぶように繋がる瞬間が引き起こすエクスタシーに酔いしれた。

 とりあえず、僕が過去に観終えたものを、手短にレビューできたらなと思っています。映画の好き嫌いは、個人によって分かれるので、お前の感想なんていらないよという方は、スルーしてください。よろしくお願いします。

カテゴリー
社会の出来事

つながり、あるいは家路につく途中で

 幼い頃の記憶が、徐々に風化していくのが、分かる。数十年の時を経て、僕は、大人になった。でも、なぜだろう。酒を飲みながら、楽しそうに話す父親の姿が、それを見守る優しい母親の眼差しだけは、忘れない。というか、どこまで考えても、僕のルーツは、そこにしかないと思い知る。
 仲睦まじく手を繋いで散歩する老夫婦、母親に連れられて保育園に向かう子どもたち、いぶかしげな表情で、目の前の風景をカメラで写真に収めようとする青年、朝のなにも変哲のない公園の風景は、やがて営みとなり、過去となり、歴史となる。1日1日が積み重なってできる現在が、今日も、滞りなく終わればいいと思う。そこで生まれる人と人とのつながりは、なにものにも、代え難い。

    ★     ★     ★

・再考
 川崎殺傷事件を、ネットニュースで知る。報道を見ていると、孤立する人間を、いかに社会に包括していくかが、語られたりする。でも、ひとりになることを自ら選んだ人間を、気にかけるほど、世間は、甘くないという人もいるだろう。ひとりで死ぬなら、迷惑をかけず、だれも傷つけずにひっそりと死ねという気持ちも、少し分かる。誰もが生きづらさを抱える社会で、あるいは、まともに生きることが難しい時代に、僕らは、いかに、つながりを維持していくのか、自分と他者を結ぶゆえんは何なのか、生きがいをみつけるには、どうすればいいのかを、もう一度考えてみるべきだ。

・たくさんの人間たち
 こんなおかしな社会で、悲惨な事件をおこす奴がいても仕方ないという、空気感が怖い。まぎれもなく社会とは、僕ら自身のことであると思うし、そんな世の中を、是としてきたのも、僕らだ。じゃあ一体、自分たちに何ができるんだと、あなたは思うだろう。まず、僕が取り上げたい視点は、たくさんいる人間を、同じとして、考えていいのかということだ。容疑者は、他人との接点は、皆無に近かったという。でも、たぶん孤立している人間は、他にもたくさんいる。(ひきこもりと呼ばれたりする。)それが、事件の要因となったのか、あるいは、彼自身の固有の問題なのかを、見極めるべきだと思う。

・バックグラウンドを考える
 それによって、社会が行う介入の仕方が、大きく変わってくる。もし、おなじ状況におかれた人間が、同じように、犯罪を起こす可能性があると考えたとしよう。きっとそれは、多くの人を傷つけるだろうし、差別や偏見を生むだろう。個人的に僕は、人間は同じように見えて、実は異質な存在だと考えている。だって、そりゃひとりひとり育ってきた環境や、出会ってきた人が違ったら、考え方も、それぞれになるだろう。まして、生まれた年代や、国籍が違う人間を、同じグループとして捉えるのは、強引すぎではないかと思う。

    ★    ★    ★

 この事件について、有識者たちが、意見を述べる。そりゃそうだろう。なにか言わなきゃ、あるいは分析して新たな知見を得なければ、どうして、何の罪もない人々が被害に遭ったのかを、呑み込めない。テレビで交わされる考えはどれも一般的で、当たり障りのないものかもしれないけど、そうやって、次に悲劇をうむ前に、どうにかしないといけない焦燥感が、みなにある。死んでいい命なんてない。社会をかえることができる。亡くなった人たちの魂に、思いを馳せる。それは、いつも仕事が終わり、家路につく途中だったりする。