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思考

恩の流れ

 僕らの歴史を、ちょっとでも振り返れば、残虐と恨みは、無尽蔵に見出される。それらの類いの感情は、簡単に、すべてを、呑み込み尽くす。ときに暴発した情念は、暴力となって、他人に襲いかかる。言葉や芸術でも、処理できない、なにかをもてあましながら、人間は、これまでを、どうにか過ごしてきたといって、過言ではない。
 じゃあどうしたら、他者を傷つけず、おとしどころを見つければよいのか。いじめは悪だ。ない方がよい。なくしなさい、なくした方がよいと語って、攻撃性がなくなるのであれば、話は簡単で、倫理学も、法律も、いらなくなる。言葉で、なくすことはできない。いくら言葉を積み重ねても。だからといって、言葉は無力であると、短絡的に考えるのは、愚かだと思う。

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・ちっぽけな存在
 今まで築いてきた文明を含め、人間という個体の生成は、ひとつの奇跡だ。たとえば、神様が、存在したとして、かれは、果たして予め、現在の世界を、計画していたのかどうかは、疑問だ。たぶん、この世界は、もうとっくに神様の範疇をこえ、未曾有の未来へと、向かっているのではないだろうか。地上で暮らす僕たちは、もう軋轢や差別に、耐えられないでいる。途方にくれて、ただ涙を流しながら、祈るくらいしか、術を持たない存在なんて、とてもちっぽけだ。僕は、そう思う。
 もちろん、無数にある身の回りの奇跡にいちいち驚いていたら、生活を静かに送ることはできない。病気や苦難のなかで、絶望していなければならない期間があるからこそ、当たり前の毎日が、輝きだす。

・なにを、信じるか
 過去は、もう消すことができない。僕は、もう生きてしまっているし、それを、なくすことはできない。そして、どうせ生きるなら、楽しい方が良い。悲惨な事件なんて、起こらない方がいい。でも、現実は違う。どうやら社会は、なにか、間違ったものを信じているようにさえ、思う。

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 〈私〉とは、存在の一つの通路だ。風が通るための。あるいは、過去と未来が出会うための。恩は、与えて返されるものではなく、与えたものが別の者に与え、それが、さらに、別の人に伝わり、順々に巡っていき、流れていく。恩の流れは、途切れることなく続いていく。満ち足りた沈黙についで、やってくる愛を、受け入れて、朝の光を待つ。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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