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社会の出来事

自分が勝てるゲームに参加すればいいと思っている

 通勤電車に揺られながら、みなが同じ格好をして、会社へと出かけていく風景は、何気ない日常のひとつに違いない。でも、少しでも違和感を覚えたなら、あなたは、その直観に従って、生きるべきだと思う。どこかしら誰しもに、みずからを解放する時間が、きっと必要なのだ。僕は、なにも毎日、汗水流して働くひとが全員、不幸なのだとは言っていない。
 みんなが嫌がる、やりたくない仕事を、誰かが請け負っているからこそ、社会が潤滑に進んでいるのだし、感謝すべきだ。でも、ずっと必要以上に我慢して、それこそ身体を壊してしまうまで、労働に勤しむことはない。みんながみんな、好きな生き方を選択すればいいと思っているし、過去の伝統的な価値観に縛られる必要は、ない。

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・苦痛
 不登校の10歳の少年が、youtuberとして、世間の注目を浴びているのをみて、さまざまな意見が飛び交う社会は、案外、正常なのかもしれない。まず、僕が思ったのは、義務教育を終えて立派な社会人になることが、ひとつの全うな生き方という考えが、自分のなかに、案外おおきな塊としてあるということだ。だから、学校に行かないという選択をする子どもの主張に、モヤモヤとした感情が生まれた。自分も苦労して、学校に通ったんだから、僕が感じた苦痛から逃げるあなたは許せないと、言いたいのでない。

・批判
 学校にいかないという選択と、学校に通う生徒はみんなロボットのようで、自分で物事を考えない人間を量産しているという考えを、同じに扱うことを避けるべきだろう。もし、彼が、学校で、教育をうける子どもを愚かだと位置づけるなら、批判がたつのは当然と言える。

・許容
 同じ教室にいる生徒たちは、ひとつの空間に存在している。でも、だからと言って、みんなが同じレースに参加している訳ではない。それぞれの人生の隙間に転がり込む彼らは、それこそ階級、性別、人種といった、様々な社会環境のなかに属していることになる。つまり、そこには複数のゲームが、展開している。その中から、合理性を鑑みて、自分が勝てるゲームに参加すればいいと、僕は思っている。要は、くしくも、この社会は、自分が選択した人生に責任を持ちなさいと、けしかけてくる。その残酷な真実を、呑み込めさえすれば、どんな生き方も、許容されるべきだろう。

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 人の人生なんて、それぞれだよね、って言えれば、楽なんだけど、どうやら社会は、なにか正解を欲しているのだろうか。ある意味で、暴力的に、あるいは刹那的に。不安に駆られる衝動と、豊かな暮らしを求める人間性は、初夏の遠い青空の中に、飛んでいってしまう。僕らは、自分のことを正常だと、思い込んでいるに違いない。
 いうまでもなく、学校に通うことで、成長できる部分もある。でも、同じ教育を受けたからといって、みんながみんな素晴らしい人間になるとも限らない。学校に、いかなくても、目覚ましい才能を発揮する人もいる。混迷する社会において、絶対的に正しい選択なんて、ないんだから。そうだとしたら、自分に合った人生を歩むべきだと、僕は思う。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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