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思考

選択しないという選択をする

 思えば、僕らはいつも選択を迫られる。今日、どんな服を着て出掛けようか。夕ご飯は何を食べようか。あるいは、どんな仕事に就こうか。どんな友人と親しくするべきか。些細なことから、ときには、今後の人生を左右されることまで。結局は、何が正解なのかは、分からない。だから、誰かが選んでくれればいいのにと考える時もある。
 ひとつ決断をするごとに、確実に神経は、すり減っていく。やはり、決められる数には限度がある。ならばオートマティックに、まるで流れ作業をするみたいに、ことが進めば、楽になるのに。けれど、不甲斐ない僕は、ひとつのことで、延々と考え込んでしまう。まるで、ふたつの人参を目の前にぶら下げられた馬が、どちらを食べようか決めかねているうちに、餓死をしてしまうみたいに。

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・異星人の話
 もっともセンシティブな選択のひとつとしては、どこまでを自分と同じであるかを、定めるかだと思う。家族であるかどうか、異性愛者であるかどうか、健常者であるかどうか、同じ日本人であるかどうか、さまざまな境界線を僕らは、無意識に引いてしまう。それは、結局は、他者を受け入れことができるのかを、問われていることと同義である。いつか、地球に異星人がやってきたとき、彼らを快く迎え入れるほどに、余裕を持てているか。もっとも、同じ地球人どうしで、戦争を止めることができない状況を鑑みれば、その答えは否である。

・人生は偶然で方向づけられる
 宇宙から、生命体がやってくるまで、まだ時間はあるだろう。(厳密に言えば、わからないけど)それまでに、僕らは、もっと成熟せねばならない。そのためのキー・ポイントしては、選択をすること自体に、それほどまでに、意味はないと、気付くことなんじゃないだろうか。生きていれば、多少のことは、分かってくる。選択の積重ねによって、今という時間があることは、否めない。けれど、そもそも、人生は、必ずしもコントロールできるものではない。予期せぬ出来事により、形づくられたり、流れに身を任せていれば、辿りついた場所はここだった。そんなことが、多々ある。

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 だから、僕らは怖気付く必要はない。医療が発達して、子どもが産まれてくる前に、障がいを持っているかどうかを、判別できるようになる。産むかどうかを、決めかねる。そこに、きっと、正しさとか、正義とか、常識とかは、通用しない。ただひとつ言えることは、はなからその検査をしない。ようは、その選択の場から降りる。選択すること自体を、放棄してしまう。そんな選択もありだということを知っていれば、いささか、生きやすい。社会には、人種、民族、性別、性的指向、さまざまな属性の人が、共に生きている。その、それぞれの命の価値を僕らは、決めることできない。だから、世界は美しいのだ。

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作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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