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思考 社会の出来事

分け隔てなく生きる

 自分らしさを、表現することは、秩序を壊すことだと思う。いままで存在しえなかった価値を見出す作業は、孤独に包まれている。どうせ道徳や正義なんてものは、マジョリティーの言い分にすぎない。だから、もし、この世界が、支配する側と、支配される側に、分断されるなら、後者は、抵抗すればいい。僕らは、生きている。言うまでもなく。人間であること、女性であること、弱者であること、あるいは動物のひとつに過ぎないこと、ありとあらゆる生命が、今日も躍動している。

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・なにを言祝ぐべきなのか
 イランとアメリカの対立が深まり、憎しみの連鎖が、舞い戻ろうとしている。「戦争」という体験をしないまま、大人になった世代が、平和を語ってはいけないのだろうか。命が、軽んじられ、国のために全てを投げ打った彼らは、何を思い、死んでいったのか。終戦を向かえたときの、不思議な安堵感を、僕は想像する。もう、戦わなくてもいいんだという思いが示す方向に進めばいい。この先に日本が、言祝ぐべき進路は、空爆のニュースを見た時の、一人ひとりの感情の内側に眠っている気がする。

・相模原殺傷事件について
 みなの命に平等に価値がある。そんなあたりまえの考えが、根本から揺らいでしまったのが、この出来事だったと思う。公判が始まり、事件の詳細が、明るみにでるとき、世界に、ひとつのひずみが生じる。その衝撃波は、螺旋状にゆっくり広がっていく。さて、僕らはいったい、だれに憤りをぶつければいいんだろう。命に線引きをしては、いけないことは分かる。他人に生きる価値があるのか、ないのかを、決めることはできない。たとえ誰かが、無意味であると判断しても、それが、命の生き死にに関わってはいけないということを、はっきり言う必要がある。

・なぜ大学教育が行われるのか
 それぞれの大学の発足の理念なんてものは、僕は知らない。でも、決して大学は、企業が求める人材を育成する機関に成り下がってはいけない。上からの命令に、文句を言わず従順に従い、サービス残業もいとわない若者は、たしかに都合がいいだろう。だけど、教育って、人を育てるって、そんな目的のもとで行われていいのかを、問いなおすべきだ。
 科学技術が進歩していく。生まれる前から、障がいを持っているかを、判別できるようになる。優秀な遺伝子だけをかき集めて、人間をつくりだす。そんな時代に、誰が、正しいか、間違っているのかを、導き出すのか。そんなことは、専門家に、まかせればいいと、あなたは、思うかもしれない。だけど、少なくとも、教育の目指すべきところって、あくまでも、自分とは立場の異なる他人に、優しくできる人間にすることなんじゃないかと僕は、思っている。

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 人間は、もうすでに、幾度となく失敗を繰り返している。優生思想における批判を、もう一度、やり直せばいい。僕が、ここで述べてきたことは、いわゆる、どうやって分け隔てなく生きることができるかということだ。宗教や、政治理念の違う国や人間にたいして、どうアプローチしていくか、障がい者と健常者を、違う教室で学ばせることに何の正当性があるのか、他者と自分との垣根をどう、壊していくのか。
 もちろん、そこには「恐怖」があるだろう。自分とは異なる他人を、疎ましく感じることは、誰にでもある。だからと言って、いがみ合う必要はない。まして殺しあうなんてことは、途方もなく馬鹿げている。もし、僕らが成熟した社会を生きているならば、過去の過ちに学び、どう共生していくかを、模索していくべきだ。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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