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思考

ニヒリズムとアイデンティタリアニズム

「核実験も軍縮もベルリン問題も、半熟卵や焼き林檎や乾葡萄入りパンなどと一緒に論じるべきなのだ。」

 とある小説の一節が僕に、途方もない悲しみと、そこの尽きない想像を、呼び覚ました。社会という枠組みに割り当てられた思考でしか、物事を、考えることができないならば、それはもう、スケールの小ささを、露呈しているにすぎない。宇宙からしてみたら、頭を悩ますどんなに大きな問題も、朝食のメニューを考えることと、じつは、なにも変わらない。
 今朝、目覚めてすぐ、ひげを剃る中年男性、そのとき、そこから離れた下水道で工事に勤しむ作業員、車の下敷きになる野良猫、一方、出勤前に電車の中で化粧をなおすきらびやかな女性….この奇跡的な関連は、例えば、秋風が吹く少し肌寒い早朝に、誰にも気づかれずに、こっそり、あちこちで起きている。

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・嘘を、はがしていく
 戦争の歴史をみれば、分かる。僕たちは元来、暴力的な存在であり、これからも、暴力的な存在であり続けるということへの、人間としての、深い覚悟が、必要だ。向こうから、けしかけてきたんだから、こっちも、やり返すのは、当たり前だという短絡的なものさしは、いらない。本物の自分というものが、いるのかどうか分からないけど、悲劇を避ける方法は、自らを包み込む嘘をはがし、つらい真実と向き合う決意に満ちた、気概だ。

・どう、ありたいか
 インターネットが世界を覆い尽くしている。いままで、僕らが想定していた常識が、通じない。ひらいていく格差。不安と憎悪がふくれあがる民衆。居場所を見つけられない若者。孤立する老人。そろそろ、永遠に落ち着ける居場所がないことに、慣れなければならない。自由を尊重しようとし、望んでか、望んでないかは、分からずとも、こういう現代ができてしまった。結局、いま問われているのは、これからをどう生きるか、どんな人間であるかだけなのだ。

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 ニヒリズムに、陥る必要ない。確かに、過去を振り返れば、そうならずにはいられない現実があった。ナチスの強制収容所でおきた悲劇でしかり、横行して見て見ぬ振りになったジェノサイドしかり。たしかに、過去の年月によって、僕らは冷静になった。いまは、誰しもがグローバル経済下におけるリスクにさらされている。
 アイデンティタリアニズムという思想が、台頭しつつある。これは、自国・自民族の文化や習慣を守って生活する移民を、切り捨てることを意味する。なぜ、こうなるのか。アイデンティティーの問題を、地球レベルに引き上げる作業に、難航しているのだ。無理やりに、経済を通して、世界を一つにしようとする、ひずみが生じている。

 存在はいつも、言葉より決定的だ。畢竟するに、どんなに言葉が純粋でも、説得力があるのは、他人の模範であるのだと、僕は思う。必要ならば、歌えばいいし、映画になればいいし、小説にして伝わればいい。でも、人間の衝動を突き動かすのは、いつでも、他者の存在だ。

作成者: 木下 拓也

1987年、大阪生まれ。ライター志望。
兵庫の大学を卒業してから、フリーターとして働いています。
セクシュアリティーは、人生を豊かにすると信じる人間です。
書いて、伝えることを大切にしています。

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