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正直さと真実との関係、あるいは一隻の船

 ある一つの、町の史実を、本にまとめようとしたら、最後に、「現在」の姿を、書く必要にせまられる。たとえ、その現在が、すぐに、現在性を失うとしても、現在が現在であるという、事実は、誰にも、否定できないからである。現在が、現在であることを、やめてしまえば、歴史を語り続ける伝承も、意味が、なくなってしまう。

 文章を書く時は、できる限り、正直に書こうと思う。しかし、正直に書くことと、真実を話すことは、また、別の問題だ。正直さと、真実との関係は、船の先端と、末尾の関係に、似ている。まず、最初に、正直さが現われ、最後には、真実が現れる。そこにはどうしても、時間的な、差異が生じてしまう。その差異は、話の大きさ、あるいは、船の規模に比例する。巨大な事実の、真実は、現われにくい。史実の本が、できあがった後に、だいぶ時がたって、やっと、現れるということもある。だから、ここに書く文章が、真実を示さなかったとしても、それは僕の責任でもないし、誰の責任でもない。

 たとえ、真実が見えて来なくても、船を進めるために、正直に語り合い、真実に、一歩でも近づくことは、必要な過程である。「豊かな人間性を育もう」というのは、眠気を誘うスローガンだ。同じく、当選する人物が、はじめからわかっている選挙みたいに。それでも、僕らは、船の舵を、離すことを、してはならない。

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思想の相反性、あるいは馬と干し草

 現在、置かれている状況を、分かるように、説得しようとしても、うまくできません。自分にも、うまく説明できないことを、他人に向かって説明できないことは、当然と言えば、当然の話なのかもしれません。人は生きるうえで、何か、不変で、絶対的なものを求めるが、それは、結局は、主観的な解釈にとどまります。ある文脈の中でだけで、生きていくことができるのならば、他人に向けて手紙を書く必要もない。ある意味で、終結点に辿り着いたとして、僕は来るべくして、ここに来たような気もするし、また、あらゆる流れに、逆らって、ここまで来たという気もする。生きていくうえで、相反する思想が、つきまとってくることは、否めません。

 自分の人生に対して、必要以上に意味を、与えすぎていると思うかもしれません。生きていくということを、説明しようとすればするほど、順序が逆になったり、正反対の、言葉を間違えて、使ってしまったりする。細かく、解説しようとすればするほど、文章はバラバラになってしまうというのは、事実です。そこには、一頭の馬が、左右に干し草を置かれて、どちらを食べ始めればいいのかを、決めかねたまま、餓死してしまうといった類いの、悲しみが、漂っている。

 具体的な話をしたとしても、いつものように風が吹き、海から波の音が、聞こえてくることには、変わりはないし、都会なら、海を埋めたてた土地で、コンクリートでできたビルに、囲まれていることには、変わりはない。何が間違っていて、何が正解かは、自分で判断を下すことができない。ただ、初めから決まっていたルールに沿って、町ができ、同じように栄えては、廃れていく。歳を重ねることは、そういうことを、知っていくことなのかもしれません。

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風の声を、聞け

 今、あるような、圧倒的な資本主義的世界において、少なからず、人々は、物質や数式、固定観念から、離れたところに、かたちにみえない、個人的な価値を、見いだそうとしています。だから、ひとつのフィクションとして、用意されている、小説の物語を読んだり、あるいは、音楽を、聞いたりしているのかもしれません。そして、できるだけ、独立した、個人でありたいと願っても、日本という国に住んでいるいじょう、国家や、文化からは、逃れることはできない。そんなジレンマを、抱えることになります。

 学術的な世界や、経済においても、大局的な視点で、意見を、述べることが、要請されます。歴史のなかに身を委ねて、自分の位置を、把握する想像力や、思考力が求められているからです。けれど、どんなに青臭いと言われても、個人的な視点に重きを置くことが、大切だと思います。物事の状況をより、正確につかむためには、ひとりひとりが感じる、ローカルの視点を、無視することはできません。

 1960年代の学生運動で、若者が大きな「体制」に異議を申し立てて、社会にメッセージを発信した。理想主義とまではいかないけれど、そんなふうに、希望を失わず、大志をいだくことが、もう一度、意味を持つような気がしています。風の通り道にたって、風を感じるのが一瞬のように、伝えたい想いを、誰かに、理解してもらいたいと思う時間は、人生の、ほんの一時期なのかもしれません。どこかの洗濯物を乾かしながら、世界の果てまで、いってしまいそうな、風の声を聞くのは難しそうですが、少なからず、理想と、現実を行き交うように、言葉を紡いでいきたいです。

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ブログを書く理由、あるいは壁にぶつかるガラス玉

 社会で起こる、いろいろなことや、目の前で起きる、個人的なことを、できるだけ、公平に、つかみたいと、思っている。必要以上に、誇張したり、必要以上に、現実的になったりしたくない。でも、そうするには、時間が必要になるのです。どれくらいの時間が、必要なのかと聞かれても、分からないけれど。それは、ささやかな、生き方の問題なのかもしれません。

 目に見えない力に、抑圧される側のために、あるいは、本当に、しゃべりたいことを、うまくしゃべれない人のために、解放の言論を、手に入れる。それが、アカデミックの世界に、かせられた、ひとつの使命だと思います。例えば、壁にぶつかっていくガラス玉があるなら、必ず、壁の方ではなく、ガラス玉の側の、立場にたって、文章をつくりたいです。もし、壁側にたって、成り立っている理論があるなら、それは、僕にとって、ぼっとん便所の便器に、流してもいいくらいに、必要のないものです。ここに、かかれた文章の真偽でさえ、自分でも、保証することのできないちっぽけなものだけれど、ガラス玉が割れてしまうほどの重圧を、すこしでも、軽くするものになればいいなと思っています。

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「女性の社会進出」について(二)、あるいは通勤電車の亡霊

 男性が、している出世競争に、参加することが、そんなに、意味が、あるのかなと、疑問を、持っています。戦後の経済成長を迎え、バブルが弾けて以降、もう一度、あの頃のような、羽振りの良い時代を迎えたいという、亡霊に取り付かれたように、経済の発展を、望んでいる日本人の生活が、それに似合った、豊かな生活を送っているのか。毎朝、ぎゅうぎゅうの通勤電車に揺られ、闘いのようなラッシュをくぐりぬけ、週5日、同じような日々を繰り返す、日常を送る「普通」の人々。それをメインシステムとするならば、社会化を、望まない人々を受け入れるサブシステムが、日本は不足していると言えます。

 「女性の社会進出」についても、同じように、男性の、覇権欲求を、むき出しに、繰り広げられる出世の争いに、参加していくことが、女性の生き方にとって、意味があるのかどうかは、もう一度考えてみても良いと思います。(もちろん、性別に関係なく、キャリアを、積み重ねていくことのできる、環境を整える必要があるのは前提として)別に働かなくても、あるいは、低所得でも、健康に生きていられれば、何の問題もないのだから。しかし、それは、日本で社会問題になっている「女性の貧困」へと、物語はつづいていきます。

・最後に
 就職をしないで、大学を卒業し、世間から、冷ややかに、排除させられるような感覚を、持ってしまう。このブログが、そういった人達と、社会とを、拙い語彙で結ぶ、表現の場になると、いいなと思っています。

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「女性の社会進出」について関心がある理由(一)、あるいは物語の行方

 人間は、普遍的なカテゴリーとして、「男」であったり、「女」として、存在していたことは、ありません。それは、自らを語ろうとするときに、他者との関係を、抜きにして、語ることは、できないからです。「男」とは何者で、「女」とは何者なのかは、歴史的文脈の中で、条件付けられます。たまたま、テレビで、「女性の社会進出」について、議論されていたので、考えることにしました。

 他者との関係性の中で、何かを理解したり、行動したりする、わたしたちが、自らを語るとき、何らかの、物語をなしに、話すことはできません。比喩として、作用する物語に沿う、規範的な、生き方から外れる人を、社会的に、排除しようとすることは、よく見られることです。父が、外で仕事をし、母が、家事をする核家族を中心として、構成される社会の在り方は、ひとつの物語にすぎません。システムの中で、再生産され続ける、普遍的な、価値観を疑ってみることは、重要なのかもしれません。

 「女性軽視」の問題は、歴史の積み重ねによって、作られてきた、物語の、負の部分であることは、言うまでもありません。僕が、抱える生きづらさと、女性が抱える問題に、関係がないとは言えません。これからの日本社会で、女性の生き方がどのように、変化するのかは、分かりません。それは、最後まで、読み終わらないと分からない、物語の行方ように。そして、その問題は、これから、僕が、どのように、生きていくかという問題と、似ています。次回に、続く。