たまに自分が分からなくなる。どんな時に悲しくて、どんな時に嬉しかったのかを、忘れてしまうみたいに。と言っても、僕がどのような人間であるかを、他人は決めてくれない。その事実が、恐ろしいと思うのは、空虚な悩みだろうか。
くよくよしている状況に四苦八苦する日常。いっそのこと、いや、だからこそ、愛について、希望について、所有について、何も疑わなかったあの頃に戻りたいと思う。この世界は、ときに僕が僕でいることを、拒んでくる。
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・世の中がぎすぎすしている理由
お金が動いている気配がする。そんなとき、僕はこの社会の片隅に追いやられていると感じる。だってそれは、自分にとって関係のない流れだから。そこで生じている売買や取引について考えた。たぶん、商品を提供している側も、高い値段の理由を見失っているんじゃないか。
いろんなサービスが、できては消えていく。それらは果たして、それ程の価値を世の中に付与しているのか。そこが分からないから、取り繕う。体を装う。もっともらしくする。綻びが出ないように。どんどん中身が空っぽになって、働く人々は、ぎすぎすした空気に疲弊していく。
・正しさなんて
そして、疲れた大人は寛容さを失い、蔑んでもいいんだと周りから認定された者をターゲットにして、排除していく。そうでもしないと、資源やお金は限られているんだから、自分たちの取り分が減ってしまう。何の取り柄もない奴を、養っていく余裕はないという理論が、正しいのか。
弱者にたいして、マジョリティー側が権利を認めるかどうかが、議論される。立ち位置の不公平について、指摘する人はいない。いつから僕らは、人間の価値を値踏みするようになったんだろう。歴史から見えてくる、淀みのない形だけの正しさが泣いている。そんな風に思う。
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いやいや社会って、そういうもんだろと誰かが言う。でも、そんなこと聞いてない。ある社会学者が言っていたんだけど、社会とは私たちのことだから、それは私たちの問題であるらしい。それならば、その私たちは、障がい者だし、LGBTQの人たちだし、外国人であるかもしれない。とりあえず、僕らは生きていかねばならない。あなたがあなたである理由を、見つけるみたいに。