社会で起こる、いろいろなことや、目の前で起きる、個人的なことを、できるだけ、公平に、つかみたいと、思っている。必要以上に、誇張したり、必要以上に、現実的になったりしたくない。でも、そうするには、時間が必要になるのです。どれくらいの時間が、必要なのかと聞かれても、分からないけれど。それは、ささやかな、生き方の問題なのかもしれません。
目に見えない力に、抑圧される側のために、あるいは、本当に、しゃべりたいことを、うまくしゃべれない人のために、解放の言論を、手に入れる。それが、アカデミックの世界に、かせられた、ひとつの使命だと思います。例えば、壁にぶつかっていくガラス玉があるなら、必ず、壁の方ではなく、ガラス玉の側の、立場にたって、文章をつくりたいです。もし、壁側にたって、成り立っている理論があるなら、それは、僕にとって、ぼっとん便所の便器に、流してもいいくらいに、必要のないものです。ここに、かかれた文章の真偽でさえ、自分でも、保証することのできないちっぽけなものだけれど、ガラス玉が割れてしまうほどの重圧を、すこしでも、軽くするものになればいいなと思っています。