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ブログを書く理由、あるいは壁にぶつかるガラス玉

 社会で起こる、いろいろなことや、目の前で起きる、個人的なことを、できるだけ、公平に、つかみたいと、思っている。必要以上に、誇張したり、必要以上に、現実的になったりしたくない。でも、そうするには、時間が必要になるのです。どれくらいの時間が、必要なのかと聞かれても、分からないけれど。それは、ささやかな、生き方の問題なのかもしれません。

 目に見えない力に、抑圧される側のために、あるいは、本当に、しゃべりたいことを、うまくしゃべれない人のために、解放の言論を、手に入れる。それが、アカデミックの世界に、かせられた、ひとつの使命だと思います。例えば、壁にぶつかっていくガラス玉があるなら、必ず、壁の方ではなく、ガラス玉の側の、立場にたって、文章をつくりたいです。もし、壁側にたって、成り立っている理論があるなら、それは、僕にとって、ぼっとん便所の便器に、流してもいいくらいに、必要のないものです。ここに、かかれた文章の真偽でさえ、自分でも、保証することのできないちっぽけなものだけれど、ガラス玉が割れてしまうほどの重圧を、すこしでも、軽くするものになればいいなと思っています。

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「女性の社会進出」について(二)、あるいは通勤電車の亡霊

 男性が、している出世競争に、参加することが、そんなに、意味が、あるのかなと、疑問を、持っています。戦後の経済成長を迎え、バブルが弾けて以降、もう一度、あの頃のような、羽振りの良い時代を迎えたいという、亡霊に取り付かれたように、経済の発展を、望んでいる日本人の生活が、それに似合った、豊かな生活を送っているのか。毎朝、ぎゅうぎゅうの通勤電車に揺られ、闘いのようなラッシュをくぐりぬけ、週5日、同じような日々を繰り返す、日常を送る「普通」の人々。それをメインシステムとするならば、社会化を、望まない人々を受け入れるサブシステムが、日本は不足していると言えます。

 「女性の社会進出」についても、同じように、男性の、覇権欲求を、むき出しに、繰り広げられる出世の争いに、参加していくことが、女性の生き方にとって、意味があるのかどうかは、もう一度考えてみても良いと思います。(もちろん、性別に関係なく、キャリアを、積み重ねていくことのできる、環境を整える必要があるのは前提として)別に働かなくても、あるいは、低所得でも、健康に生きていられれば、何の問題もないのだから。しかし、それは、日本で社会問題になっている「女性の貧困」へと、物語はつづいていきます。

・最後に
 就職をしないで、大学を卒業し、世間から、冷ややかに、排除させられるような感覚を、持ってしまう。このブログが、そういった人達と、社会とを、拙い語彙で結ぶ、表現の場になると、いいなと思っています。

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「女性の社会進出」について関心がある理由(一)、あるいは物語の行方

 人間は、普遍的なカテゴリーとして、「男」であったり、「女」として、存在していたことは、ありません。それは、自らを語ろうとするときに、他者との関係を、抜きにして、語ることは、できないからです。「男」とは何者で、「女」とは何者なのかは、歴史的文脈の中で、条件付けられます。たまたま、テレビで、「女性の社会進出」について、議論されていたので、考えることにしました。

 他者との関係性の中で、何かを理解したり、行動したりする、わたしたちが、自らを語るとき、何らかの、物語をなしに、話すことはできません。比喩として、作用する物語に沿う、規範的な、生き方から外れる人を、社会的に、排除しようとすることは、よく見られることです。父が、外で仕事をし、母が、家事をする核家族を中心として、構成される社会の在り方は、ひとつの物語にすぎません。システムの中で、再生産され続ける、普遍的な、価値観を疑ってみることは、重要なのかもしれません。

 「女性軽視」の問題は、歴史の積み重ねによって、作られてきた、物語の、負の部分であることは、言うまでもありません。僕が、抱える生きづらさと、女性が抱える問題に、関係がないとは言えません。これからの日本社会で、女性の生き方がどのように、変化するのかは、分かりません。それは、最後まで、読み終わらないと分からない、物語の行方ように。そして、その問題は、これから、僕が、どのように、生きていくかという問題と、似ています。次回に、続く。